第96章―結ばれない糸―
「昨日、富田さんの所に行かなかったのは、今日だけは萌のことだけ考えようと思ったからなんだ。」
朝がきて帰る時、志生はそう言った。
その、私だけを想う時間は終わってしまった。もうこの人は私の恋人ではないんだ。
「充分だよ、ありがとう。」
努めて笑顔を見せるのがこんなに苦しいなんて。でも泣かない。泣いたら志生が困るから。
私たちは見つめあったまま動けなかった。もう一度。もう一度だけ抱きしめられたい。最後にもう一度だけ、あなたの腕の感触をこの身に焼きつけさせたい。今手を伸ばせば。今。
でもできなかった。志生も同じ思いでいるのが分かるから出来ない。抱きあわないことで、それでも私たちは抱きしめあっていた。
「元気で。」
「志生も。」
ドアが閉められる。志生の顔がどんどん小さくなっていって・・パタン。見えなくなった。
・・・終わってしまったんだ。志生と私は。手放したんだ。あんなに愛した人を。愛している人を。我慢してた涙がこぼれた。志生の車のエンジンの音が聞こえた。しばらくエンジンの音は聞こえていたが、やがて決心したかのように発進して行った。
「ああああああああーっ」
私は大声で泣いた。子供のように。どうしても手に入らないものを欲しがる子供のように。涙は留めなく流れて、涸れることがなかった。泣きながら、志生との楽しかった日々が脳裏を揺らしていった。ついこの前あの観覧車に乗ったのだ。ついこの前私の一番辛い話をしたばかりなのだ。私だって志生が必要だ。富田さんに渡したくない・・。それでも、それでも、この別れを悔いてない自分がいた。もう誰も、私の人生に関わった人誰も、私の存在で辛い思いをしてはいけない。富田さんは志生を愛している。私とどっちがより深いかなんて、きっとどんなに深い海で測ってもわかるはずない。志生も後悔しないはずだ。そのための別れなのだから。
嗚咽はいつまでも続いた。サボコが窓辺でずっと見守ってくれていた。
散々泣きはらしたまま私は眠っていたのだと気がつくまで時間がかかった。眠っていたのかもしれないし、ただぼんやりとしていたのかもしれない。自分が自分だというのを理解するのさえ朧げな覚醒の中で行われたので、なぜ自分がこんなに悲しいのかもわからなかった。志生を失ったことを受け入れられてないのだと思った。私の志生がいなくなったことを。
でも志生は生きている。私の恋人じゃなくなって、他人になって、富田さんの恋人になった志生だけど、少なくとも生きている。私の恋人じゃなくても、もう逢えなくなっても、誰かの恋人でも、私の志生への想いまでなくなったわけじゃない。私の志生への気持ちは私だけのものだ。・・・愛は育ってゆく。きっと育ってゆく。一人でもきっと。そう思いたい。
それでも涙は流れた。私はその日、うとうとと浅い眠りを繰り返し、何かの拍子に目が覚めると涙を流した。そうして日が暮れて夜がきても、私はずっと同じところから動かなかった。自分の部屋が寒く感じた。ベッドってあんなに広かったっけ?今夜あのベッドに寝るしかないと思うと辛かった。志生の匂い・・。大好きな志生の。
今日あのあと、志生はきっと富田さんのもとへ行ったに違いない。二人でどんな話をしたんだろう。富田さんは志生の気持ちを受け入れたのだろうか。志生は富田さんの唇に自分の唇を重ねたのだろうか。・・・よそう。関係ないことなのに。なんか考えがあっちこっちに行ってる。しっかりしなくちゃ。もう甘えられるあの腕はないのだから。
時計を見ると夜の8時だった。いったい自分は何時間こうしてたんだ?明日は仕事なのに。私はゆっくり立ち上がった。と、足元がふらついた。何も食べてないうえに、よく考えると今日はトイレにも行ってない。ふらふらしながらとりあえずトイレに行った。あんなに泣いたからトイレにも行きたくなかったのかな、なんて看護婦にあるまじきことを思った。・・・参っている。病んでいる。
例によって紅茶だけ淹れて、ミルクと砂糖を多めに落とした。一口飲むと熱い液体が喉から食道、胃に落ちてゆくのが分かった。そして胃に収まった瞬間、胃というよりは内臓全体がギュウッと縮こまった。食物を望んだのに、少量の、しかも熱い液体が流れてきたことに、私の胃は不満を訴えていた。不満は痛みとなって私に空腹をぶつけた。でも何も食べたいとは思えなかった。胃は私の意志や悲しみや失恋の痛手などお構いなく食物を要求し、痛みをぶつけ、それに飽きると訴えを休んだ。そしてまた思い出したように痛みをぶつける。その繰り返しだった。
それは私の精神状態とまさに重なった。自分の本当の気持ち。本当に欲する想い。でもその反対に志生と別れてよかったんだという気持ちも本当だった。富田さんの残りの時間が長いか短いかは別として、“この世に生を受けて、今までの人生いいことばかりじゃなかったけど、幸せなこともいっぱいあった”。そう思ってほしかった。・・・富田さんがもっと酷い女だったらよかった。富田さんがもっと自分勝手な女だったら。そうしたら私は何があっても志生を手放さなかった。でも。だけど。
・・結局こういう運命だったんだとしか言えない。こういう運命だったのだと。私と志生は結局、結ばれない糸を必死に結ぼうとしてただけだったのだと。
それでも朝はきた。それでも仕事に行った。それでも仕事をこなした。それでも陽は沈んだ。それでも夜が来た。それでも。
時々悪魔のささやきが私の耳元で聞こえた。“富田さんなんか早く死ねばいい”“富田さんがさえ死んでしまえば志生は私のもとへ戻ってくる”・・・。でもどこかで小さく確信があった。もう、きっと、私と志生はふたりになることはない。恋人になることはない。愛し合うことはない。