第95章―別れ―
「萌、ゴメン。」
志生の言い方があまりに静かだったので、その話だとわかるまでに一瞬の間があった。私は志生の顔を見ないで言った。見ることが出来なかった。
「うん。わかってるよ。」
そのあと志生も私も言葉が出てこなかった。ふたりとも黙っていた。
どれくらい時が経ったのか。志生が話を始めたのは多分、もう夜中と呼ぶ時間だったと思う。
「・・・金曜日、富田さんの見舞いに行ったらそこに彼女の親がいたんだ。俺もビックリしたけど、まあ予想できたことだし、向こうも驚いてたけど、別に何も言わず部屋に通してくれた。萌から聞いてはいたけど、ちょっとの間であんなにげっそりしてるとは思わなかった。彼女、俺の顔見た途端泣き出した。その泣き方がさ、なんていうか、こう、音が無いって言うか、声も出ないけど身体も震えてないんだ。顔を見なけりゃ、泣いてるかどうかわからないくらいの静かさなんだ。それ見て俺、すごく胸が詰まっちゃって・・。どういえばいいんだろう?やり切れないっていうのかな。どうしてこんな事になっちゃったんだって、ただそれだけ胸の中で繰り返して。
で、俺言ったんだ、二人にして下さいってご両親に。・・・ふたりになったあと、富田さんが小さい声で泣きながら、心配かけてごめんなさいって・・。萌が来た事も言ってた。自分の言いたいことばかり言ってたのに、心配してくれてたって。それで・・、それで・・。俺、うん、うんって返事しかできなくて。余分なこと言ったらマズイのかと思って。病気の話が出なかったからさ。あ?病名?ああ、うん、結局あの病院に行った時わかったみたいだよ。向こうの親の話で分かったけど。主治医が話したって。両親と一緒に。これも向こうの親からの話だけど、病名知らされた時も彼女、ただ黙ってたって。・・だから俺は富田さんからじかには聞いてないんだ。今日は行かなかったし。というか行けなかったんだけど。とにかく順番で話すよ。
それで、萌の話が出た後、急に“もういい”って言われたんだ。もう俺の好きなようにしていいって。萌の所に行けって。自分は今体調が悪いし、これじゃらちがあかないから、今までの事もなかったことにしてくれって。振り回して悪かったって。・・でも俺、何も言えなくて、それに対して返事できなくて・・。早く元気になるんだって、それしか言えなくて・・。しかも言いながら涙出そうになってさ・・、いや、出さなかったよ。こらえた。それで、とにかくまた来るからって言って・・。もう来なくていいって言ってたけど、又来るって言って部屋を出たんだ。で、向こうの両親に挨拶して・・。そしたら訊かれたんだ。どうしてここが分かったんだ?って。だから最近の話をざっと説明して・・。お母さんは泣いてたよ。そりゃそうだよ、もう自分があの世へ行くことを考え始める歳なのに、先に娘に逝かれるんじゃ・・。主治医の話じゃ手術しないらしい。リスクが高すぎるらしい。抗がん剤を使って、でも、もって半年くらいじゃないかって・・。そしたら今日家に電話が来て。どうやって調べたんだか、話がしたいって言われて。最初お袋が出たんだ、それでびっくりしちゃって、どうなってるんだって話になったから、親父とお袋にも話をして・・。富田さんの親は、つまり、」
そこで志生の口が止まった。唇を何度もなめたり、噛んだりしている。見なくてもわかる。ここで、こうして、志生の肩にもたれているだけで、この息遣いを感じるだけでわかる。言わないで、言って、言わないで、言って・・言って!
「・・・つまり・・、俺に彼女についててほしいって・・。最期まで・・。出来たら結婚してやってもらえないだろうかって・・。」
「・・・・そう。」
やっぱり。そうだよ、そうだよね。どんな親だって、娘は可愛いんだもの。幾つになっても娘は娘なんだもの・・。
少しの沈黙があった。私は何も言わなかった。
「・・でも、俺が、昨日思ったんだ。あの富田さんが、あんなふうに、なりふり構わずに俺の所へ来たのは・・こうなる事をわかってたんじゃないかって。いや、病気の事はわからなかったと思う。見合いの話があったのも本当だと親父さんが言ってた。でも、そういうんじゃなくて、なんていうか、・・本能?そういうものが彼女を突き動かしたんじゃないかって思ったんだ。彼女の意識を超えて、本当に求めているもの(俺だったんだけど)を、自然に本能が要求したんじゃないかって。そう思ったんだ。それで俺は・・。決めたんだ。富田さんの所へ戻ろうって。彼女の人生の最期を、共に過ごそうって。で、今朝、向こうの両親に頼まれた時、言ったんだ。俺の方からお願いするつもりだったって。・・ゴメン。」
「ううん。よかった。」
「よかった?」
「私もその方がいいと思ったから。このまま離れてしまったら、志生、後悔する。」
私がそう言ったあと、志生はため息をついた。
「ゴメン・・。でも、そう思ったのは多分萌の事があったからだと思う。萌の苦しみがすごくわかった。・・確かに辛いね。過去とはいえ、自分を愛してくれてる人が死んでしまうのは。だから、逃げたくなかったんだ。今の彼女を知ってる以上、見届けるべきだと思った。」
「うん。その方がいいよ。」
不思議と涙も出なかった。まるで世間話をしているようだった。
むしろここからが本当に辛い話になった。志生は私の顔を見て、本当に穴が開くんじゃないかというくらい見て、優しく唇を重ねた。そして言った。
「待っててくれないか。」
私はその言葉の意味するところをわかっていたが、あえてわからないふりをした。キョトンと志生を眺めていた。
「俺には萌しかいない。富田さんと過ごすのは、俺にとっては責任を取る事なんだ。愛情かと言われれば違う。・・・俺はいつか萌の所に戻りたい。」
「・・・。」
「待ってて欲しいんだ。」
言いながら志生は私を抱きしめた。強く強く。愛している人から愛されるのは、こんなに甘美なこと。言葉にはできないこの感情。
でも私はゆっくりと志生の手を離した。
「待たない。」
「萌・・。」
「それじゃあ、本当に富田さんを救う事にはならない。」
志生の顔に迷いが広がった。迷わせてはならない。決して戻らせてはならない。
「・・もちろん、私は志生を大好きだけど・・。志生に私と同じ思いをさせたくない。ただ富田さんの最期を見届ければいいという事じゃないと思うの。そこには愛情があるべきだと思う。本当にあたたかい、その人だけへの愛情があるのが、富田さんの本当に求めているもの。志生もわかっているはずよ。」
「・・・・。」
「萌が待ってるなんて思って富田さんに寄り添うのは、同情より酷い。それは自己満足よ。あなたがどんなにいい演技をしても富田さんにはバレるでしょうね。そしてそれは私をも傷つけるよね。・・だってそれじゃあ、富田さんが死ぬのを待つだけの責任の取り方なんだもの。私は志生をそんな人だと思いたくないの。」
「でも俺は・・。俺にはできない。萌を忘れて富田さんを愛せっていうのか?できない。」
「出来る出来ないじゃないよ、人の想いは。でも、私たちはするんだよ。しなくてはいけない。時間がない。あなたは、富田さんのとこへ戻ると決めたのよね?」
「だからそれは・・。」
「決めたのよね?」
「・・・。」
「その時、本当にそれは彼女への責任だけだった?違うと思うよ。どんなにわずかでも、愛情があったと思うよ。あんなに大好きだったんだもの、それがないわけがない。」
「萌・・。」
「それを育てるんだよ。どんなに少ない時間で、どんなに小さな愛情でも、二人で育てていったら、きっとすぐに大きくなって・・、すぐに大きくなって・・。」
言いながら、こられ切れずに涙が溢れ出した。・・この人と出逢った夜、あの一目で私をとらえた寝顔、病室での初めてのキス、初デートの時派手なシャツに驚いたこと、初めての夜、観覧車、プロポーズ、ネクタイ、駅、スーツ、夜景・・・そう、本当に出会ってわずかだったのに、私たちの愛情はすぐに大きく育っていった。時間ではないのだ。愛情を育てるのは気持ち、想い。時間や空間ではない。心が育てる。どこまでも飛んでゆく。
私の言葉は続かず、小さい嗚咽となった。志生も私を抱きしめながら、やはり泣いていた。大好きな大好きな志生。確かにあなたは戻ってくるのかもしれない。私もあなたを忘れることはできないと思う。でも一時的ではダメなんだ。先を約束しての別れではダメなんだ。完全に終わらせて別れる。富田さんの死だけを待つような日々を、志生も私も過ごしてはいけない。生きていること、生き続けてほしいと願い、毎日を喜びながら感謝する日々を、志生も私も富田さんも送るのが、本当に私たちに必要な日々なのだ。それに終わりは要らない。
「・・さよなら。」
私の背中に小さな声が落ちた。絞り出すように、かみしめるようにその声は私の背中を波打った。
「さよなら。」
私も言った。どうしてもどうしても言えなかった言葉。
「俺には言えない。」あの人があの日そう言った言葉。
私たちはそのまま抱き合ったまま眠った。私の志生。朝が来たらもう私の志生じゃなくなる。もうこの寝顔を抱きしめることはないのだと思う。ありがとうとか、愛しているとか、言える言葉は数限りないのかもしれない。でも、本当に伝えたい気持ちは、伝えたい思いは・・・言葉にも出来ないのかもしれない。心という文字の一つ一つが離れているように。離れているものを寄り添わせて心という字が生まれるように。