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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第93章―茨の重い鎖その22「本物の幽霊・運命の動く音」―

 静かで暗い夜は、まるでこのまま朝が来ないんじゃないかと思わせた。巡視の時、私は久しぶりに怖いと思った。多分、今日患者が亡くなったせいだろう。怪談話より現実の死の方が当然リアルである意味怖い。何故って、今までここにいた人が知らない世界に逝ってしまうんだから。しかも本人さえ驚いているはずだ。今日自分が死ぬなんて思わなかっただろうし。今、その患者(ひと)はどこを彷徨い、何を思っているのだろう。そんなことを考えていると、全身がアンテナになってくる。何か、よくわからないものが自分を見ているような感覚に陥る。

 本当に今夜は静かだ。一つ一つ病室を見て行きながら何度もそう思う。トイレの水音さえしない。夜半の巡視には大抵1回は年配の患者がトイレで起きて、水洗を流す音が聞こえるのだが。亡くなった患者がいた元の大部屋も静かだった。「死ぬんじゃない。」と言ってた人もいびきをかいて眠っている。ナーバスになるよりは安心する。もう通り過ぎていったものなのだ。誰かの死も、通り過ぎてしまえば、それはもう終わったことだ。終わって済んだこと。なにも生産性の無いもの。

 亡くなった患者が最期に使った個室の前に来た時、私の恐怖感はピークになった。その部屋のドアが見えた途端、足がすくんで動けなくなりそうだった。私は唾をのんだ。そのつばの飲み込む音がとても大きく感じた。胃が喉元までせりあがってくるような感覚。でも、その部屋の手前までは少なくとも生きている患者がいるのだ。ちゃんと見に行かなければならない。

 正直、その部屋は比較的病状が軽い若い男性が使っていたので、省略してしまう事も出来た。看護婦の中にはあの部屋は夜半の巡視は見に行かないという人もいた。でも今夜行かないのはマズイ。自分の隣の部屋で今日何があったのか彼は知っていた。夕食の時も、配膳に来た看護婦に「お隣に来た人死んだんだね。」と言ったらしい。だからといってその後は何も言わなかったので、こちらからもどうとは言わなかったのだが、やはり気分のいいものじゃないだろうねとその看護婦から聞いていた。そりゃそうだ。誰だって気分いいものじゃない。

 一歩足を進めるのがとても勇気が要った。でも人が死んだ部屋の隣で寝るのはもっと勇気だろう。そう思って何とか足を前に出した。

 部屋を開けてそうっとみると、患者はちゃんと寝いっていた。背中をこちらに向けていたので顔は確認できなかったが、身体が呼吸のリズムでほんの少しだけど上下に揺れていた。この人も志生みたいに静かに寝る人だなと思った。そしてその部屋を出ようとして後ろを見た時、私は廊下を横ぎる影を見た。そして全身凍りついた。今日亡くなった患者が廊下を歩いている!

 どうしようと思いつつ、ゆっくりと廊下に近づき部屋から廊下を見る。患者の透けた後ろ姿がぼんやり見える。・・・“うわあ、見えるなあ。この前の富田さんといい、いつの間にそんな能力がついたんだろう。どうせならもっと役に立つ能力が良かったのに。”とその時後ろから誰かが私をつついた。

「ヒッ!」

思わず声が出てしまった。多分声と言っても息が止まったような声だったのだが、とても大声を出してしまった感じだった。

「大丈夫?看護婦さん。」

「ああびっくりしたあ。」

その部屋の患者だった。当たり前か。「やっぱり彷徨ってるみたいだね。」と彼は言った。

「え?わかるの?」

「うん、昔から霊感が強くて・・。俺は慣れてるけど、看護婦さんそうじゃないみたいだったから。」

「初めて見た。」・・幽霊は。

「まだ自分が死んだことを受け入れられないんだよ。大丈夫、たいてい今夜だけだよ。」

彼はそう言ってベッドの方へ戻った。

 私はどうしたらいいんだろうと思った。もちろんずっとここにいる訳にはいかない。ナースステーションに戻らなければ。でもあれを見た直後にその廊下を通っていくのはさすがに・・。すると彼は私の気持ちを察したのか、ベッドにあったガウンを取って言った。

「看護婦さん、ステーションまで送るから眠剤が安定剤ちょうだい。俺、1度起きちゃうと眠れないんだ。」

彼が私を気遣ってそう言ってくれているのか、本当に眠れないのかわからなかったが、もちろん私にとっては救いの神だった。


 でも二人で廊下に出た時もう影はなかった。もしかして廊下を曲がってステーションまで・・と思ったのだが、彼が

「もう大丈夫。病棟(ここ)にはいない。」

と言った。私はびっくりして

「ホント?なんでわかるの?」

と訊いた。彼によれば、さっきまであった“気配”が消えたからだと言う。

「おそらく家に行ったんだよ。」と彼は言った。

 ナースステーションに戻った時、まるで我が家に帰ったような安心感に包まれた。こうこうと点いている照明が懐かしくさえ感じた。

「眠剤はいきなり出せないから、安定剤でもいい?」

そう言ったのと同時に彼は

「看護婦さん、大丈夫そうだ、眠くなってきたから。部屋へ戻るよ。」

と言った。やはり、私に気を遣ってくれたのだ。

「ごめんなさい、私に気を遣ってくれたのね。」

そう言うと「いつものお礼。」と言って帰っていった。


 仮眠するのにうってつけの晩だった。でも眠気は来なかった。私は紅茶を淹れ、ステーションに誰かが置いていったお煎餅をかじって夜勤業務をこなした。それが済んでしまうと、物音をたてないように、注射薬の入った棚や、カルテを並べている台、消毒などに使う物品を乗せているワゴン(包交車といいます)の掃除を片っ端から始めた。汚れる事もないのだが、普段やる暇もほとんどないので、ちょっと拭いただけでとても綺麗になった。

 そうこうしているうちにだんだん外が明るくなり始めた。廊下を散歩する早起き患者の足音(ちゃんとした足音だった)も聞こえてきた。トイレのドアを閉める音もあちらこちらから聞こえた。そしてその頃になって眠くなってきた。やれやれ。まだこれからがあるのに。仕方なく私は滅多に使わない市販のビタミンドリンクを冷蔵庫から取り出して、一気に飲んだ。それから採血とバイタル測定(体温、脈拍、血圧、呼吸状態を測ることの総称)に出た。

 ゆうべ私をステーションまで送ってくれた彼の部屋から行った。

「お早うございます。夜はありがとう。」

「なんのあれしき。」

「助かったよ。」

そう言うと彼が申し訳なさそうに言った。

「多分、見えないのが普通なんだ。」

「え?」

「俺みたいのは別として、普通の人は見えないのが普通なんだ。でも俺みたいのが近くにいると、アンテナみたいな役割になっちゃって、ふだん見えない人にも見えちゃうことがあるんだ。だから、昨日看護婦さんに幽霊が見えたのは俺のせいかもしれない。俺の部屋にいたから。・・ゴメン。」

そう言うと彼は俯いた。私はあわてて言った。

「もしそうだとしても助かったわ。巡視をやらないわけにはいかないし、あの状況じゃステーションまで行くの辛かったし。本当にありがとう。だから気にしないで下さい。それにあの人は昨日までここにいた患者さんなんだもの。怖がるばかりじゃかわいそうだわ。」

私がそう伝えると彼はホッとしたように微笑んだ。そして「でもこれは二人の秘密だね。」

私たちはそう言って笑いあった。


家に着いた時、本当に眠くてどうにかなりそうだった。“みんな褒めてくれたけど、あんなに必死に掃除なんかしなきゃよかった。ただでさえ寝不足なのに。”

 私はとりあえず少し寝よう、その後志生に連絡を取ってもいいだろう、そう思った。そして志生にその旨をメールしておこうと思って携帯を出した。そういえば携帯を夕べ見たあと1度も確認していなかった。するとそこには志生からメールが入っていた。

「お早う。今から富田さんの家族と会う事になった。またこちらから連絡するから。」

・・・。なんで?寝不足でろくに動かない脳でも一気に覚めた。富田さんの家族?それから昨日私が考えた可能性のことを思い出した。もしかしたら私と同じことを富田さんの家族も考えているのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。だから志生と会うのだ。それ以外理由がない。

 私は運命が動き出した音を聞きながら、志生からのメールをぼんやりと眺めていた。

















































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