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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第92章―茨の重い鎖その21「So What?」―

 夜勤の日の夕方、病棟で急変して亡くなってしまった患者がいた為、日勤者が帰ったのが19時過ぎになった。ナースステーションはまだ色んな物品で散らかっていた。みんな片付けて帰ると言ってくれたのだが、明日の勤務もあるので「夜中にゆっくりやるから」と言って帰させた。

 忙しくて夕食も食べてなかった。もちろん携帯を確かめることもできなかった。今夜志生が富田さんの所へお見舞いに行っているはずなのだ。昨日のうちに転院先の病院を彼に伝えておいた。この街から車で1時間くらいの病院。

 富田さんは今日初めて知ったのだろう、そこが癌専門病院だと。どう思っただろう。ただの脳外科と思ってたのが癌の病院だと知れば、やはり自分の病気を疑うに違いない。昨日、志生はその辺を気にして見舞いに行くのを躊躇った。

「何か言われたら、俺自信無いよ。萌も知ってるだろ、俺は嘘が下手なんだ。」

「でもきっと志生に会いたいはずだよ。そりゃやつれた所は見せたくないだろうけど、それでも会いたいと思うの。だって私と話したって事は志生にも伝わるってことじゃん。それであなたが全く顔見せなかったら、富田さん傷つくと思うよ。」

「全くとは言ってないよ、一人じゃちょっと・・ってだけだよ。」

「私と行くとしても、まずは一人の方がいいんじゃないかな。」

「うーん・・。そうか?」

 本当は別に私と二人で行ってもいいんじゃないかとも思った。でも、看護婦の私でさえ彼女のやつれ様にびっくりしたのだ。志生はもっと驚くだろう。そして色んな思いがよぎるだろう。その時に私が隣にいたら、本当に思った事を言えないんじゃないかと思う。

 すでに志生は、ある意味私と富田さんの板挟みになっているのだ。今までは私が圧倒的に優勢で富田さんはなおざりになっていたけれど、あの富田さんを見て志生は果たして今までのように思えるだろうか。富田さんは昨日は「一時休戦ね」と言っていたけれど、今日自分の行った先が癌専門病院と分かれば、かなり気持ちは変わるのではないか。「もう身を引く」と言うんじゃないか。私はそう思えてならなかった。そしてそれはどうしても私の中で納得できないというのが本音だった。だからこそ志生に一人で行ってほしいと思った。一人で富田さんに会うことで、志生も色んなことを考えてほしいと思った。それは私の為でもあるし、志生にとってもいいことだと思う。でも私はその自分の思いを志生にうまく伝える自信がなかった。だからただ、「金曜に志生が帰ってくるって富田さん知ってるんだから、一人でも会いに行って。」と伝えた。

「とにかく、明日そっちに着く時間にもよるから。行けたら行くよ。」

志生の最後の言葉はそれだった。


 時計は20時を回った所だった。“とりあえずご飯食べようかな。”私はすっかり冷めてしまっている夕食をレンジに持っていった。

 夕食を温めている間に携帯をバックから取り出す。やはり着信があったことを知らせるライトがついている。志生からだった。

「夜勤お疲れ。今富田さんの所を出た。俺が思っていたより元気そうだった。詳しくは明日。連絡待ってる。」

・・・え?これだけ?おいおい、もうちょっとないのかよ。もしかしたら富田さんは今日は具合がよかったのか?そうだとしてもかなりやつれているはずなのに。志生にはいいとこ見せたくて元気に振舞ったのか?本当はそういうレベルの状態ではないはずなのだが。

 チン。レンジが鳴った。急いで食べて一服(これだけは譲れない)して、消灯の準備に入らないとならない。ご飯を食べ始めた所でふと手が止まった。・・もしかして志生は私に言いたい事が言えずにああいうメールになったのかも?

 もちろんそれは十分あり得る話だった。メールで本当に本来の気持ちを伝えるのは案外難しい。じかに自分の口で、自分の言葉で語られるもの以上に伝わるものはない。もしかしたら志生は・・。私の中である可能性がふつふつと沸いていた。私ならそうするであろう可能性。


 その晩は夕方の忙しさのお返しなのかとても静かだった。消灯も問題なく(たいてい、なんで昼間言わないで今頃言うんだろうというような訴えをする患者さんが一人はいる)、その後のナースコールも一切なかった。夕方の急変は本当に“急変”で、それは病棟内の他の患者にもわかったはずで、実際何人かが私たちに様子を訊きに来ていた。大部屋から急いで個室にその患者を動かした時は、同じ部屋の人が「死んじゃダメだぞ!」と叫んでいた。

 個室に移して間もなく手を尽しつくした時、部屋を出ると廊下に心配そうに立っている人もいた。

「どうなった?看護婦さん。」・・首を振る。

「そうか・・。」

そんなだったので、日勤者が夕食を私の代わりに配ってくれた時(本来は夜勤者の仕事なのだが、私が夜勤本来の仕事を何も準備できなかったため、みんなが気を遣ってくれた)、患者の中には他の患者の急激な変化に影響を受けている人も少々見られた。

「大丈夫だと思うけど、不眠を訴える人はいるかもしれない。特に同じ病室だった人たち。要注意。」と私は送られたのだった。(一概には言えませんが、医療現場では伝える事を「送る」という言い方をします:作者)

 でも何もなかった。消灯の見回りも先ほど書いたように問題なかった。そりゃ「気の毒だったね」ぐらいの会話はあったけど、でもそれだけだった。余りに静かすぎて逆に気持ち悪いくらいだった。生きとし生けるものはみなどこへ行ったのだ?と大声を張り上げたくなるような不気味な静けさだった。

 

 ・・人は死ぬ。それは決して避けて通れない。生きとし生けるものはみな避けて通れない。時々私たち生命ある存在は消耗品に近いような気がする。この世に生れ出て、それぞれに与えられた、もしくは選んだ(それさえも自分が選んだ気になってるだけかもしれないけど)道を過ごして、沢山の素晴らしいことや、その何倍もある哀しいことに、身も心もすり減るだけすり減らしてやがて死を迎える。死ぬまでの過程がどうであれ、結局死ぬことに変わりない。

 そういう事を考え出すと、最近の私は、今自分が死んでも構わないんじゃないかと思う。だから何?って感じ。別に私一人この世からいなくなったってどうってことないんじゃないかって。もちろん家族や友達や志生を多少泣かせるだろうけど、でもそんなのは一時の事だ。じきに忘れる。忘れなくても薄れてゆく。

 私は自殺したいわけじゃない。あの人の死と隣り合わせで生きているのは感じていても、その間には決定的な壁がある。私は生きている。愛する人がいて、誰かの存在を祈ることもできる。それが尊い事も知っている。でも、心のちょっとした隙間にいつも死はある。今までは“隠れている”だったが、今は“ある”と言った方が近い。

 私はわざとそれを考えるのとやめようとした。こういう事は考え出すとキリがないし、何より自分で止められなくなってしまうのだ。少なくとも私はそうだった。メタファーの支配から脱せない。病んでいる。自分の心の底の方がじくじくと膿んでいるのが分かる。見える全てをペシミスティックの方へ持って行きたくなる。・・・だから何?すべてはいづれ終わるものなのに、と。



























 

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