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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第91章―茨の重い鎖その20「ペシミスティックな女」―

 富田さんの転院先がちょっと離れた街の癌専門の病院だと彼女からメールが入ったのは、私が勤務を終えて自宅へ向かっている車の中だった。メール音が鳴ったのだが運転中は見られないので、踏切で停まった時に見た。

 そこは最近出来たばかりの国立の癌専門病院だった。そこが有力かと思っていたが、“患者が全国から診察に訪れるので地元の病院からの紹介も予約がかなり混んでいる”と聞いたことがあった。だからそんなに早く転院が叶うとは思わなかった。彼女からのメールによれば、富田さんは眩暈が酷いために、トイレくらいしか起き上がれないという状態という話だった。そして明日の午前中に救急車で搬送する予定だという。

 それを読む限り、富田さんの症状が悪化しているのは明らかだった。辛い思いをしているに違いない。でも志生も明後日の金曜日まで帰ってこない。患者の転院に救急車を使うのは、つまり“その患者を動かせない”という意味である。余程のことだ。・・・今夜この事実を志生に伝えなければならない。私は志生に「手が空いたら連絡を取りたい」とメールを打った。



 私はそのまま家に戻って、食欲がわかないながらも夕食の支度を始めた。こうしている今も富田さんが苦しんでいると思うと、私が心配したところでどうにもならないのだが、やはり気分が重たくなった。結局私はみそ汁の為に豆腐を用意したところで包丁の手を止めて、ガスの火も止めた。そしてバックを持って家を飛び出した。志生から連絡もなかったので、私は再度メールを送った。「ちょっと出かけるので連絡は9時過ぎがいい」と。

 19:10と車のデジタル時計は表示していた。もう病院かいしゃには夜勤者以外ほとんど退社しているはずだ。私は病院に「忘れ物をしたから職員玄関を開けていてもらえないか」と電話した。今夜の事務当直は私より若い男性社員だった。私は通り沿いのコンビニで彼に少しばかりの差し入れを買った。缶コーヒー、スナック菓子、サンドイッチ。

「いやあ、気を使う事無いのに、暁星さん。」

事務所に顔を出し、買ってきた差し入れを渡すと彼は満面の笑みで喜んだ。

「こっちこそ助かったわ。じゃあ、また帰る時声掛けるから。」

そして私は富田さんの病棟へ向かった。

  

 時計を見るともうすぐ20時になるところだった。“夜勤者が消灯に回る前に退散しなければ。”私は足早に階段をあがった。エレベーターは夜は音が響くので使わない。

 富田さんの病棟に着くと思っていたよりも静かだった。私も音がしないように、でも早く歩いた。運がいいことに誰にも会わなかった。夜勤の看護婦も、この時間は夕食を摂った後のささやかな休憩時間だ。コールがなければ、まず患者の所には訪れない。私は急いで富田さんの部屋を探した。彼女は予想通り個室だった。

 コンコン。小さく、本当に聞き取れるかどうかのノックだった。富田さんの具合を考えるとおそらくベッドから出るのは無理だろうし、眠っていることも十分あり得る話だった。“眠っていたらそのまま帰ろう。”私はそっとドアを開けた。

 富田さんは身体を横に向けて目を閉じていた。点滴の針がその手首に刺さっていて、そこが少し蒼くなっていた。おそらく針を刺した時、血管に刺さった穴から少し出血したのだろう。血管が細い人やもろい人によくあることだ。私も見慣れている。でも富田さんのその手首を見た時、私は本当に痛々しく思った。

 そのとき不意に彼女は眼を開けた。人のいる気配を感じたのかもしれない。うつろな顔に髪の毛が落ちて、一層彼女を痛々しくみせた。

「富田さん。」

私は小さい声で言った。彼女はゆっくりを顔を上に向けて私の方を見た。そして“え?”という顔をした。

「具合いかがですか。」

ついこの前会ったばかりなのに、それが嘘のようにげっそりとしている。病人の顔だ。あの夜、喫茶店で私に志生を幸せにすると言いきった彼女と同一人物とは思えないほどだ。“ずいぶん症状が出始めたら進行が早い・・。”また私の中に鉛が注がれていった。

「暁星さん・・。どうして?」

「ここ、私の勤めている病院なんです。病棟は違いますが。」

「そう・・。知らなかった。」

声に張りがない。唇も渇ききっている。全体的に病気特有の匂いがしていた。それでも彼女はゆっくりとその身を起こそうとした。私はあわてて止めた。

「いいです、どうかそのまま横になっていてください。私もすぐ帰りますから。」

「ごめんなさい・・。せっかく来てくれたのに・・。あなた一人?」

「志生は今仕事で出張中なんで。」

「ああ・・そう・・。」

富田さんは志生がいない事をちょっとホッとしているようにみえた。それはそうだ。私だってこんな姿を好きな人には見せたくない。それでも不思議な事に、やつれた富田さんは美しかった。今までの私が知っている凛とした風情が残っている中に、まるで蛍の灯のような儚さが加わって、それは女の私にさえ「そそられる」色香が漂った美しさだった。

「私の事、いい気味だと思ってる・・?」

「そんなこと・・」

「ふふっ・・嘘よ。」

富田さんは楽しそうにそう言って、クスクスと笑いだした。それを見て私もつられて小さく笑った。

「土曜の夜中かな・・。急に頭が痛くなって・・それが尋常じゃない痛みで・・。」

「・・・。」

私たちと喫茶店で別れたあとか。あの夜私は志生にあの人の事を話してしまった事でパニックになったんだわ。

「日曜に入院して・・、なんか、頭の病気みたいだけど・・。明日、脳外科の専門病院に行くんですって。」

脳外の専門?癌専門だと言ってないのか。

「そうですか・・。ここは脳外はあまり設備されてないんで・・。」

「そうみたいね。」

「頭痛はいかがですか。」

「・・大丈夫。それより眩暈が出てきちゃって・・。」

「ちゃんと調べてもらった方がいいですよ。」

「そうね・・。しばらくあなたと休戦だわ・・。」

それきり富田さんは黙ってしまった。疲れたのかもしれないと思った。

「顔が見られて安心しました。今度は志生とお見舞いに行きます。」

そう言って彼女の顔を見ると眼を閉じていて、まるでストンと眠りにおちてしまったかのようだった。


 私は音がしないようにドアを開け、そっと周りを見渡した。幸い誰もいなかった。時計は20時20分だった。私は急いで階段を降りて、事務所によって職員玄関を開けてもらい、外に出た。

 家に戻るとまず志生に電話した。すぐに志生が出た。私は志生に「残念な話だけど、落ち着いて聞いてほしい」と言ってから、今の富田さんの病状を伝えた。私の知る限りの情報を話した。そして最後に「本当はこんな事を第三者に話す権利は自分にはないのだ、これは守秘義務違反になりかねないから絶対他言無用にしてほしい」と言った。

 私が話している間、志生は一言も話さなかった。全部聞き終わった後、深いため息が受話器の向こうから漏れた。

「じゃあ・・、知紗さんは知らないんだ・・。自分の病気のこと・・。」

余程驚いたのだろう、私の前では“富田さん”と言ってた彼が、“知紗さん”と言って、しかも言った事に気がつかないようだった。もちろん聞いた方は胸に針が刺さったような痛みがあった。でも無理もない。流そう、瑣末なことなのだ。私は自分にそう言い聞かせた。

「そうね。よかったわ、こっちから訊く前に向こうから言ってくれたから。」

「うん・・。」

「金曜日、早くこっちに着いたらお見舞いに言ってあげたら?私は夜勤だから。」

私はなるべく自然にそう言った。いや、自然に受け取ってもらえるように。でないと胸につかえている何かが取れて、何を口走るかわからない。混乱しているのは私も同じだった。

 ・・・運命の歯車がこんな風になっていくとは思わなかった。他人ひとは私をラッキーと言うのだろうか。もう誰も私に周りで死んでほしくない。こんな風に富田さんは逝ってほしくない。いや、まだ彼女は死んだわけじゃない。必死で辛い症状に耐えているのだ。なのに私の胸に去来するのは、現実を受け入れたくないという思いと、脳腫瘍の最期のシーンばかりなのだ。なんてペシミスティック。こんなに自分勝手なペシミスティックな女、見たことない。




































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