第88章―茨の重い鎖その17「世の常」―
結局帰るまで富田さんとは会わなかった。病棟が違って良かったと素直に思った。顔を出そうか迷ったのだが、昨日の夜の事を思うと、彼女に会うのは得策とは思えなかった。家に帰ってから志生にメールを打った。昨日の夜、返事をしなかったお詫びから始まり、富田さんが入院した、自分の病棟じゃないので詳しい事はわからないが、酷い頭痛でこれから検査だと伝えた。志生から電話が来た時、私はお風呂に入ったあとで昼食を食べてるところだった。
「今メール見たんだけど。」
「うん、私もびっくりしたけど。そういうわけだから。」
「・・会った?」
「富田さんに?まさか。会わないよ。まあ、明後日勤務してから偶然があれば避けられないけど、わざわざこちらから会いにいかない方がいいでしょう?あなたならともかく。」
言ってから嫌味に聞こえたかなと思う。
「ごめん、嫌味じゃないのよ。」
「わかってるよ。」
「あの、ちょっと不思議な事があってね。志生に聞いてほしいけど、今は仕事中でしょう?また夜にでも電話したいんだけど。」
「ゴメン、今夜はこっちの営業所の奴とちょっと飲む約束したんだ。前から知ってる人なんで。急ぐ話?」
「そうなんだ。ううん、急ぐ話じゃないんだけど・・。明日でもいいわ。」
「わかった。また連絡するよ。」
「志生。・・気をつけてね。待ってるから。」
なんだか声を聞いたらとても志生を恋しく思った。淋しいと言いたかった。
「萌も。無理しないように。」
淋しいと言えたらいいのに。でも言えない。
次の日、私はすごく久しぶりに寝坊をした。目覚ましもかけなかった。夜、もしこの部屋まで富田さんが来たらどうしようと思ったけれど、さすがにそれはなかった。
やはりあれは生霊だったんだ。初めて見たけど、随分はっきり見えるものなのだな。幽霊もあんな風に見えるのだろうか。あの人の幽霊なんて見たことないけど。出るならあの人の方が確率高い気がするのに。・・・それにしてもどうしてあんなのが見えたんだろう。私霊感体質だったっけ?そんなの今までなかったけどな。そう思うと、いかに富田さんの思念が強かったかと思う。
昔、古典の授業で源〇物語を習った。主人公は母親が亡くなった後に父親が迎えた後妻に恋をし、でも受け入れてもらえず、彼女の面影を探して女性遍歴を重ねていくのだが、その話の中で主人公の正妻に嫉妬した女性(今でいう愛人!?)が余りの嫉妬心で生霊となり、正妻に取りついて最後には殺してしまうという場面があった。それを読んだ時、そんなに人の情念が強くなるなんてあり得ないと思った。仮にそうだとしても、無意識にその情念だけが本人の身体を離れて何処かへ飛んでいくなんて、あまりに非現実的だった。でもそれと同時に、そんなにも誰かを強く愛するってどんな気持ちなのだろうかとも思った。実際古典の教師は、正妻を無意識ながら殺してしまう女性の気持ちや、それほどまでの愛情をどう思うかなどに焦点をあてて授業を進めた。昨夜、私の前に現れた富田さんの顔は、正直怖くも何ともなかった。特別恨めしそうな顔もしてなかった。ただ涙を流していた。その涙もあまりに自然すぎて、本人は泣いてる事にすら気づいてないんじゃないかを言う感じだった。逆にそれが重苦しいとは思った。まだ「穂村君をちょうだい」とか言って迫られれば、私も「できないわ」と対抗したかもしれない!?だけどただ泣かれた日にゃどうにも手の出しようがない。昨夜だけで終わるのかどうかもわからない。
とにかく私はしっかりと睡眠を取って寝坊した。窓を開けるともう陽が高かった。サボコにも日光浴。身体を伸ばし、湯を沸かして紅茶を作った。紅茶の茶葉が残り少ない。・・今日買ってこよう。そう思った時、あの人の奥さんの顔が浮かんだ。土曜の夜に会ったあの女性は本当に彼の奥さんだったのか。あの時は絶対間違いないと思ったけれど、日が経つにつれてだんだん自信がなくなってくる。あのバーラウンジもかなり暗かった。まあ、人の顔が区別つかないほどではなかったから私もあの女性を奥さんだと確信したのだが。
結局あの珍しい食材を売っているスーパーまで行くことにする。確かあのスーパーなら紅茶も他種類あるはずだし、私が彼女と会うにはあのスーパーくらいしか理由がない。早々何度も死んだ夫の勤め先にも行かないだろう。あのスーパーでしか会えない。
車を走らせる。うちの近所からある程度離れて行き、ある地域に入ると、私の記憶は一気にあの人との日々に包まれる。あの交差点の信号は待ちが長いから必ずキスをしたとか、あのカー用品の店でカーオーディオをねだって買ってもらったとか、あの食堂の定食が美味しくてよく通ったとか。彼の顔に水をかけたあの喫茶店以外にも、本当に本当に思い出が溢れていた。悲しいことばかりだったのに、こうして車から見る景色は楽しかった思い出のポイントばかり。本当に数少ない思い出のひとコマ。もしかしたら、今もあの人と私は続いていたかも知れない。私がもう少し賢い女だったら。彼がもう少し器用な男だったら。でももう遅い。何もかも。気がついたら遅かったなんていうのは世の常だ。
やがてあの珍しい食材を売っているスーパーの看板が見えた。昼過ぎだけど、駐車場は結構混んでいる。車を停めてスーパーの入り口まで行ってわかった。明日が定休日なので、取って置けないものは処分するために値段を下げて売っているのだ。なるほどね。なるほど。
私もカゴをもって店の端の方からゆっくり見て回る。まぬけな私は当初の目的(あの人の奥さんに会うこと)を忘れている。安い惣菜でもあれば夕飯それで済ませるのにな、などと考えている。紅茶のコーナーさえ素通りしようとして、ハッと思う。そうだった。何の為にここまで来たんだか。そして奥さんの姿がないか見回す。いないみたい。そうだよね、そんな簡単に偶然ってないよね。あの日がむしろ大当たりだったんだもの。
そして買い物を済ませて外に出ようとした時、見覚えある白いブラウスが前方を歩いているのが見えた。“あっ!”思わず私は走り出す。その人は駐輪場の方へ向かっている。呼び止めようと思う。でもどう呼べばいいのかわからない。あの日、私たちはお互い名前も名乗らずに別れた。もちろん私は彼女の名字を知っている。でもそれを叫んではいけない。あの日からそれ相当に時間が経っているのに、例えあの後新聞を見たと理由をつけても、ここですんなりとあの名字を言うのがやっぱり躊躇われる。駐輪場についてあのブラウスの人を探す。と、私の横を1台の自転車が通り過ぎた。えっ?と思って振り向くとあのブラウスだった。・・・違う。奥さんじゃない。
白いブラウスの自転車を見送って、私は自分の車にのそのそと戻っていった。わざとゆっくり歩き、時間を稼ぎながら。ここで奥さんがパッと現れてくれれば。そう思いながら。そしてふと思った。本当に会ったとして、会えたとして、何を言えばいいのだろう。横浜の晩からずっとそう思っていながら、いい言葉が出てきていない。しかも彼女が本当に奥さんだったとして、まだこの近くに住んでいるのかも怪しい。夫が死んで、子供もいなくて。夫との思い出が詰まった所に独りになってもいるだろうか。いい別れ方とは決して言えない。死別でも、病気と自殺じゃ大違いだ。普通ならこの土地から離れているだろう。もともとこの辺の人ではないのだ。私は新幹線ホームで彼女を見た時、反射的に疑いながらも同じ駅から乗ったものだと思ってしまったけど、はたしてそう言えるのか。疑問を数えれば数えるほど、あの人の奥さんにまた会う確率は、そしてまだこの辺りに住んでいる確率も、とてつもなく低いんじゃないかと思った。気がつくのが遅かったか?あの夜、声をかけた方がよかったのかもしれない。気がついた時には動かなければ間に合わない。それが世の常。