第87章―茨の重い鎖その16「幽霊の正体」―
23時の巡視に回っている最中から何となく空気が変わった気がして、何度となく後ろを振り返ったり聞こえてくる音に注意深く耳を傾けたりしていた。視線を感じるなんてもんじゃあない、視線が刺さる。そんな感じ。最初私は患者さんが後をつけているのかと思った。たまにそういうこともあるのだ。もちろん本当に用があって、「ナースステーションに行ったらいなかったからうろうろ探してました」とか。でもとんだ勘違いの人もいたり。「昼間はゆっくり話せないから」って・・病院は看護婦とおしゃべりする所じゃないよ!みたいなこと。でも違う。足音も聞こえない。何かゆっくりと空間だけ移動している感じ・・。もうすぐ全部の部屋を回り終わるあたりで私は思った。幽霊。
あの人が来た。私はそう思った。あの人ならおかしくない。今まで私に会いに来ない方が不思議なくらいだったのだ。あの人だと思ったら全然恐怖感はなかった。怪談話は苦手なのに、自分の知ってる人は幽霊でも怖いことってないんだな。
私はそのまま巡視を終えてナースステーションに戻った。・・・確かにいる。少し離れたところからついてきている。幽霊はドアを閉めても大丈夫だろうか。ここのステーションは夜だけ閉められるようにドアが設置してあるのだ。(夜は手薄になるので万が一の防犯の為。案外夜ステーションに忍び込もうとする患者は多い。私が1番びっくりしたのは酒が飲みたいばっかりに消毒用アルコールを盗もうとした患者さん)私が知らん顔でドアを閉めると、やはりその“異空間”はそのままドアを通り抜けて入ってきた。
来た・・。鼓動が一気に速まる。振り向かなければ。今。今ならちゃんと確認できるはずだ。あの人を。私を想いながら命を終えていったあの人を。私は息を吸いこんで、ゆっくり後ろを向いた。そして心底驚き、愕然とした。
そこにいたのは富田さんだった。彼女は私をじっと見ていた。その顔を見た瞬間、私は本当の恐怖にかられた。なぜ?なぜあなたがここにいるの?まさか・・。私の脳裏に絶望にかられた富田さんが自殺を考えている所が浮かんだ。「死んでもいい」と言っていた彼女。でもこの前会った時にそれを初めて聞いたのであって、とても死ぬような雰囲気はなかった。志生のお母さんに会いに行ったのが昨日。お母さんに拒められたのが余程ショックだったのか?いや、そんな事はわかっていたはずだ。わかっていて志生の家族に会いに行ったんだから。富田さんはそんな馬鹿じゃない。一瞬で私の頭に沢山の憶測が散らばった。
彼女はただ立っていて、ぼんやりと私を見つめ泣いていた。それだけだった。何か言おうとか、どうかしようとかは感じられなかった。そして薄い。全体が透けている。不思議なのは彼女がネグリジェのようなドレスのようなものを着ている所。幽霊を見るのは初めてだけど、普通死装束ではないのか?だんだん私は冷静になってきた。この人、本当に死んだのか?私はためしに彼女を呼んでみた。
「富田さん。」
こわごわ声を出したので声自体は小さかったが、彼女には聞こえたはずだ。でも彼女はなんの反応もしなかった。私は志生に電話してみようかと思った。志生から富田さんに連絡を取ってもらえば一番早い。彼女が本当に亡くなったのか、今私が考えている可能性が高いのか。今私が考えている可能性が高ければ、もちろん富田さんは死んではいない。でもそうならば、彼女の思念は私と志生が思う以上に強いものだ。
時間を見る。午前0時を過ぎた所。携帯に手をやる。でもなあ・・。志生は今朝も早く起きて朝1番の新幹線に乗るのだ。行先は訊かなかったが、昨日別れる時、駅で時刻表を確認していた。この時間に志生を起こすのが躊躇われた。そして彼と電話する事で今目の前にいる富田さんがどうなるのかも。ただそこにいるだけで、特別害がない。多分、いやきっと、富田さんは今自分がここにいる事さえ知らないはずだ。私の勤め先を知ってたかどうかは定かではないが、そんなのは調べようと思えばいくらでもできたけど(実際アパートで何度も待ち伏せしてたのだし)、本当に私を苦しめたい、私と勝負したいのなら、こんな事はしないだろう。彼女はもっと頭がいい。今私の目の前にいる彼女は、富田さんだけど、彼女の意志とは違う富田さん。・・・・生霊。
私はしばらく放っておくことにして、カルテの記載に取りかかった。このカルテを書き終えたら、朝の検査の準備をして少しの仮眠ができる。それまでに消えてくれたらいいんだけど。決して気持ちいいもんじゃないし。・・・しかし。富田さんの情念は、その肉体を超えて、私に自分の存在を思い知らせるに充分だった。暁星さえいなければと、さぞや思っているのだろう。志生を想い続けてきた富田さんにとって、私は本当に降ってわいたような“予測不可能”だったのだろう。志生を忘れようとしてもしても、どうにもならなかった彼女の長い夜が、切ない涙が、私にも容易に浮かぶ。
ジリジリ!!びくーっ!・・・内線電話が鳴った。あああ、び、びっくりした・・。
「はい。」
「ごめん。明日の採血でスピッツ(採った血液を入れるもの)が足りなくて。そっちに借りに行っていい?」
この上の病棟の看護婦からだった。
「いいですよ。」
電話を切ってふと見ると富田さんはいなくなっていた。・・帰ったか。
しばらくするとその看護婦が来た。
「今日緊急入院があって。頭痛なんだけどね。かなり辛そうだったみたいで、とりあえず検査入院って事になって。その人の採血が多いもんで、他の人の分のスピッツが不足しちゃって。まったくうちの若い連中も困るわ。週末は多めに物品確保しておけってあれだけ言っててもこうなんだから。」
その看護婦は私より4つ年上で、おそらく来年あたりには主任になりそうな人なのだが、ちょっと口うるさい所があった。でも確かに物品確保は大切だ。特に夜間は人がいなくなるので、何かあった時欲しいものが有ると無いでは対処の早さが大違いになる。
「足りますか?」
私が用意したスピッツを見て「大丈夫。助かったわ。」。またうちの病棟はちょっと多すぎるくらいのストックだった。それはそれで検査室から文句を言われるのだ。スピッツなどの検査物品はうちの病院では検査室の管理になっているので適当に貰いに行くのだが、余りの数を請求すると「タダではないので必要分と少しの余分にしてください。使用期限もあるし。」とチクチク言われる。今の時代、どこも節約。特に消耗品はかなりうるさくなっている。
「なんかね、暗い人なの。」
「?」
「ああ、入院した人。41歳だかの女性でね。独身。なんかお金持ちのお嬢さんって感じ。41じゃもうお嬢さんじゃないか。でも、まあ具合悪いんだから仕方ないけど、そういうんじゃなくて、なんか陰気な感じの人。返事もそっけなくて。」
「そうなんですか。」
・・・・・!?彼女に返事をしながら、私はふと思った。41?独身?お金持ち・・。
「あ、あの。」
「何?」
「その方、なんていう方ですか?」
「やだ、暁星さんの知り合い?・・・富田さん。富田知紗子さんっていうの。」
・・やっぱり!
「お知り合い?」
「いえ、知り合いって程じゃないです。」
「やだ。ごめんなさい。悪いこと言っちゃったわ。」
「いえ。私の知り合いではなくて、ちょっと知人から聞いた事ある名前なので・・。」
「ふうん。でもよくわかったわね。歳と独身だけで。」
「あ、ちょっと思いついたんで・・。あの、知人から頭痛で悩んでる知り合いがいるって聞いてて、その人に似てるなあって。」
苦しい。我ながら苦しい説明。
「ふうん。ま、明日から検査するから。お知り合いにはそのように伝えて。でも守秘義務範囲よ。」
「もちろんです。」
それじゃあ、と彼女が自分の病棟へ戻っていった。私は椅子に座ってはあーっとため息をついた。富田さんがよりによってこの病院に入院するなんて。でもこれでわかった。彼女の強い思念の原因。酷い頭痛で気持ちが弱くなって、いつもより尚志生を恋しく思ったのだ。私のことも不安材料になったに違いない。その結果、思念が肉体を離れて、たまたま夜勤で近くにいた私の所に来たのだ。こんなこと何かで証明できることじゃないけど、そうとしか思えない。
ともあれ富田さんは生きている。自殺未遂だという話でもなかった。私は少し安心したのと、これから勤務のたびに富田さんに会う可能性が極めて高くなったことを憂鬱に思った。それだけじゃない。彼女の口から志生と付き合っていることも周りに知られてしまうかもしれない。別に隠すことでもないけど、患者と看護婦という取り合わせ。みんなの口に上るのは避けられない。まあ、検査して異常がなければすぐ退院だとは思うのだが。ぜひそうであって欲しい。出ないと夜勤の度にこんな目に会うのはちょっとしんどい。しかもああいうのは本人には自覚がないらしいから、本人に話すことも出来ない。もし他の人の夜勤であんなのが見えたら大変だ。そのあたりは様子を見るしかないのだけど。
窓の外はまだ真っ暗だった。時計はちょうど1時だった。次の巡視が3時なので、私は朝の準備を後回しにして仮眠を取ることにした。眠れないだろうけど、身体を休めるだけでも朝の調子が違う。・・・富田さん。よっぽど志生が好きなんだな。わかっていた事だけどこれほどとは。またいいタイミングでそれを私に教えに来たものだわ。だって私が停めていた志生との結婚を、前向きに考えようかと思ったその矢先なんだもの。・・・その矢先なのに。
・・・私と志生はどうなってゆくんだろう。富田さんの病気は何なのだろう。奥さんは今頃どうしているのだろう。行方の無い不安が私を取り囲んでいた。志生。志生の心はどこへ向かうんだろう。ずっと私の所にいてくれるんだろうか。富田さんは?そして私は?私の心は・・病んだ中でも小さな灯りを灯そうとしている私の心は?みんな、みんなどこへいくのだろう。必ず夜明けは来るとか、明日があるとか、よく聞く言葉だけど、今の私には疑わしくて・・。