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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第83章―茨の重い鎖その12「女は愛に生きる」―

 「なんか様子が変だけど、本当に大丈夫?」

志生の問いにわざとらしく

「やあね。忘れてなくてバッグにあったわ。酔ってるのね。」

と、満面の笑みで返す。だってどう説明しろって言うんだ?そもそも私はあの人の奥さんに会ったことを志生に話していない。別に隠したわけじゃないが話す必要がなかったし、正直話したくなかった。奥さんは私とあの人の事は知らないし、あんな風に会うことになると思わなかった。

「…ならいいけど。」

志生は今ひとつ納得いかなさそうな顔をしていたけど、余計に突っ込んで来る事もなかった。多分、志生なりにややこしい話になって私とトラブルにならない様に気を遣ってくれているのだ。でも志生の気遣いとは裏腹に、部屋に戻っても私の頭の中は、あの人の奥さんとあの男性でいっぱいだった。・・いったいどういう仲なのか。

 私が見に行った時、テーブルで二人は身を寄せて外の夜景を確かめているようだった。その姿は、後ろから見た限り恋人同士にしか見えなかった。奥さんはこの前私と会った時より髪が伸びていて、全体に緩くパーマがかかっていた。あの時は品のいい薄化粧という印象だったが、今夜はその出で立ちに合うべく輪郭のはっきりした化粧で、薄いとは到底言えなかった。黒のレースをあしらったスーツ(というよりツーピースといった感じ)は、上がやや短めの丈のボレロ風の上着、スカートはマーメイドラインのロングスカート。ボディにぴったり沿った、(エックス)ラインのシルエットの仕立てのいいスーツだった。そんな彼女はとても最近夫が自殺したばかりの未亡人には見えなかった。ちょっとしたお店のマダムといったところか。でも決して水商売風にも見えなかった。 

 男性の方もスーツではなかったが緑色・・鶸萌葱(ひわもえぎ)色のジャケットにベージュのスラックス。どちらもおそらくきちんと作られたものだ。中に着たシャツは見えなかったが、細身のタイをしていた気がする。メンズの服はよくわからないけど、高級品かどうかくらいは区別がつく。死んだあの人がそうだったから。特別洒落たファッションではなかったけど、ポロシャツ一つもいいブランドのものだった。志生もそうだ。ネクタイを買いに行った時もそう思ったし、普段もメンズブランドのものが多かった。ただ志生はTPOを使い分けていて、仕事で汚れるとわかっているものは安いTシャツを沢山買っておくのだそうだ。そんなわけで、私はこの年齢にしては比較的洋服の良し悪しは見極められる方だと思う。

 とにかくあの二人が絵になる大人のカップルに見えたのは確かだ。時計を見る。もう少しで日付が変わる。今頃あの二人は・・。奥さんは・・。

「お風呂入れてるよ。酔った?入れそうか?」

志生がうわの空の私に優しく話しかける。我慢強い人だと思う。私が自分以外の事を考えてるのをわかっていながら訊こうとしない。訊きたいだろうに気付かないふりをしている。私の為にここまできて、私との時間を大切にしようとしている。・・・そうだよね。もういいや。あの女性ひとが奥さんだろうが別人だろうが(それは有り得ないと思うけど)、そもそも私には関係ないんだし。そうだとしても私には彼女に何か言う権利もない。しかも私の顔を見てもわからなかったじゃないか。いや、もう忘れてしまったのかもしれない。たった一度会ったきりなのだ。私にとっては特別な人であり、特別な事だったけれど、あの女性(ひと)にとってはどうかなんてわからない。夫が死んだ愚痴を見ず知らずの他人に話してしまったことで、すっきりしたのかもしれない。どのみち今考えても仕方ないことだ。だったら、いい加減に志生の方を見なくては。それとこれは全く別物なのだから。

「酔ってるけど、お風呂ははいれまあす。」

おどけて言いながら志生に抱きつく。「うふふ、志生あったかーい。」

「萌もあったかいよ。」

志生の両腕が私の背中に回る。私の鼻先に志生の首の匂いが届く。またたく間に私は、好きな男の肌の感触に酔い始める。それは強い酒と一緒。こっちの意志は関係なく快感に連れて行ってしまう。

 私たちはひとしきりベッドでじゃれ合って、心に詰まったさまざまの重石(おもし)を下ろしていった。他愛のない抱擁、他愛のないやり取りが今の私たちには本当に必要だったし、それに飢えていた。志生には志生の、私には私のそれぞれに重石が積まれていて、お互い共通のもの、全く相容れ合えないもの、下ろすことさえ出来ないものもあった。昨日の夜、私はいっそキチガイになれるものならと思った。志生にあの人の死を話すことが、話そのものが、志生に対してもあの人に対しても申し訳ない気がした。志生に話せば自分の辛さや過去を志生にも肩代わりさせることになるし、あの人には二人だけの日々を他人に知らせることになるのだ。あの人が決して望まなかったに違いないこと。そして今朝は今朝で富田さんが志生の実家にまで来たということ。志生のお母さんはどんなにびっくりしただろう。それでもまだ知りあって間もない私を庇ってくれたのだ。たとえそれがポーズだとしても、私は感謝すべき立場だ。

 それでも富田さんの志生に対する執念の如き恋心・・。ある意味羨ましかった。すべてをかなぐりすてて自分の気持ちに正直に走れること。私は彼女よりずいぶん若いけれど、もうそんな事は絶対出来ないと思う。私が志生に対して富田さんより弱気な言い方になってしまうのは、あの人の死がトラウマになっているのは確かだがそれだけではない。・・もう自分は怖いのだ。傷つくほど人を愛する事が。傷つけるほど誰かを求める事が。あの4年で私にいつのまにか身についた鎧なのかもしれない。この気持ちはきっと、愛してはいけない人を愛した経験のある人なら分かると思う。でも富田さんのような女性(ひと)もいるのだ。愛してはいけない人を愛して、悲惨な経験も乗り越え、それでもなおその人を愛し貫く姿勢。はたから見れば身勝手に見えるのだろう。志生のお母さんもそう思ってるようだったし、志生も心底憎めないながらも、富田さんの余りに躊躇の無い行動に戸惑っているのが事実だ。でも私には理解できる。昔私は泣いて泣いてあの人を求めた。何を犠牲にしてもあの人を手に入れたいと思った。今の富田さんのように。何度想像の世界であの人の奥さんに詰め寄っただろう。あの人と別れてほしいと。私に譲ってほしいと。私の方が彼を幸せにできると。私はただ寸での所で行動に移さなかっただけなのだ。

 志生の両腕を肩に感じ、志生の指先を背中に想い、そして私も志生の素肌をシャツの上から感じながら、そんな事を考えた。こうして文字にするととても長いけれど、頭に廻るのはほんの一瞬の出来事。でも一つだけわかっているのは、富田さんも私も、恋愛を根本として動いているのだ。その点では同じだ。どんなに形が違っても、女は愛に生きる。そう、きっと。あなたもそうでしょう?

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