第82章―茨の重い鎖その11「夜景とカクテルと黒いスーツ」―
私たちはガラス越しの夜景に見とれ、美味しいお酒でさらに酔っている。もし、自分が前回この街に来た時のままの自分だったら、本当にそれは申し分ない光景だった。
実際私はかなり酔っている。モスコミュールをあっけなく飲んで、再度ウォッカベースでスクリュードライバーを飲んだ。そしてジンベースに移り、今ジントニックを飲んでいる。3杯立て続けに飲めばけっこうなアルコール量だ。志生もほぼ同じペースで飲んでいる。XYZ、そしてジンリッキー。飲みながらサラミやチーズをつまむ。それは普通の代物だったが、一緒についていたクラッカーが美味しい。歯ごたえがあって、それをかみ砕いた後ジンを飲むと、クラッカーの甘みとかすかな塩味がジンのほろ苦さに溶ける。
私たちは取りとめのない話をしていた。仕事の事や、志生の出張先でのこぼれ話や、同僚の事など。そして話のひと段落ごとに夜景に眼を移し、その度にため息をついた。眼の前の港の橋のライトアップは恋人達の人気スポットだ。本来車を停めてはいけないのだが、金曜土曜はわずかな時間をあの橋の上で過ごすカップルが多いそうだ。このホテルは決して超高層とは言えないが、ホテルの周囲に大きな建物がないのでバケーションが広い。夜景が本当に間近に繰り広げられる。夜景だけで充分話題になる。でもそういうのとは違う所で、私たちはなんとなくお互い話題を選んでいる感じだった。少なくとも私はそうだった。こんなに酔っていても、頭のどこか隅の方に氷に付けた如く冷めている部分があって、あの人やあの人の奥さんや富田さんが絶えずに顔を出している。それは抵抗できない部分だった。私の意志をはるかに超越してそこに存在していた。そしていつも私を見張っている。私が一瞬でもこの柵を忘れないように。気を許さないように。これを読んでるあなたには、「それは思いこみ」とか「自分以外の人間が自分の頭にいて自分を見張ってるなんて非現実すぎる。こういう考え方がそもそも病んでいる。自分でわざわざおかしくさせている」と思われるかもしれない。でもこの立場になるとわかる。そういう現実もあるのだ。私はその人たちの視線を手に取るように感じる。その眼つきを描ける。ただ、三人とも表情が違う。
あの人はいつも哀しそうな顔をしている。瞬き一つせずにその悲しい瞳を向ける。私はその顔を見る事が出来ない。いつも眼を逸らす。そうしない訳にいかない。でもそうする事で、彼の瞳はなお哀しさが増す。「死んだ後まで拒まないでくれ」「君を見つめることくらい許してくれ」と、その眼は訴える。それでも私は彼の眼を見る事が出来ない。あの人の奥さんの視線はとても静かだ。何も語らない。語らない事ですべてを伝えてくる。「私は何処へ行けばいいのか、どうやって生きていけばいいのか」と、空を彷徨っている眼だ。彼女は今の自分の立場を作ったのが私だという事さえ知らない。だから実際はその瞳に私は映っていない。でも彼女は語りかける。言葉を超えて訴えてくる。「この現実を招いたのは何なの?」と。そして富田さん。彼女の視線が一番ストレートかもしれない。志生を求める余りに、行き場のない想いを私に投げかける。でもその眼は決して私を睨みつけていない。いや、もしかしたら睨みつけたいのかもしれない。でもできなくて、その代わりに懇願するしかないというような、迷いで揺れる瞳だ。「どうか穂村君を私に返して。私がこの世で一番愛した人を私から取り上げないで」。「あなたを怨ませないで」。そう言ってるのが耳元で聞こえるくらいリアルだ。私は唯一彼女にだけ向き合って囁く。その眼をじっと見返す。「私も志生をこの世で一番愛している」。でも私なりに強く叫ぶその声は、どこかやはり自信がなく聞こえる。富田さんはそれをわかっている。そこにつけこんで私を追い詰めにかかる。「あなたの叫びは弱い。それはあなたの弱さ。愛情を貫く自信がない弱さ。それでは穂村君は幸せになれない。私にはそれが出来る。穂村君を幸せにできる。」私は両目を塞ぎ、天を仰ぐ。すべてが混沌としている。それが私の頭の中で一時の猶予もなく、まるでショーのように繰り返し繰り広げられている。こうして、本当に美味しい酒を飲んでいても。こうして、志生がそばで微笑んでくれていても。と、そこにあるはずのない光景が横切る。バーラウンジの入り口。
「おい、萌?大丈夫?酔ったか?」
ハッとする。思わず私の肩に触れた志生の手を払いのける。
「萌?」
一瞬、ここがどこだかわからなくなりそうな感覚。
「・・ゴメン。ちょっと酔ったかな。一瞬寝ちゃったよ。」
「これ飲んだら行こうか。」
酔ったのだろうか。本当に?確かに強いけど。でも美味しいけど。・・さっきのは何?入口に・・。私はバーラウンジの入り口をもう一度見る。いない。いたのに。目の錯覚だろうか?私は姿勢を変えて何気なくラウンジ全体を見渡す。そしてカウンターに一人の女性を見つける。厚化粧、黒いロングスカートのスーツ、ハイヒール。おおよそ彼女に似つかないスタイルだが、間違いない。あの人の奥さんだ。やっぱりこの街に来てたんだ・・。一人で?あんなボディーラインぴったりのスーツ、普通男性といる時に着るものだろう。
「萌。行こうか。」
志生が伝票の代わりに置かれたカードを持って椅子を立とうとしている。あわてて私は志生を引っ張り、再度座らせる。志生はびっくりした顔をしている。
「お願い。もう1杯だけ飲ませて。」
「ええ?俺はいいけど、萌、大丈夫か?」
「大丈夫よ。ね、もう1杯だけ。」
「じゃ、あと1杯だけ。そしたら帰ろう。」
いぶかしげな顔の志生。そしてバーテンダーを呼び、ドライマティーニをふたつ追加する。改めて彼女を確かめる。都合いい事に私たちの前にある窓ガラスにカウンターが映っている。彼女はシェイカーを振るバーテンダーを見てる。か、もしくは喋っている。どちらにしても一人だ。誰かを待っているのだろうか。ここに泊まっているのだろうか。
ドライマティーニがくる。志生が話す言葉に曖昧に返事をしながら、私の興味は奥さんの様子にのみ集中していた。奥さんの前にもカクテルグラスが運ばれている。志生はすぐにグラスを空けてしまい、私が飲み終わるのを待っている。奥さんは相変わらずカウンターで飲んだり、近くのバーテンダーと話している。・・・20分経ったが、奥さんの所には誰も来ない。
「萌、もう部屋へ行こう。遅くなった。」
時計は22:40。もう少し見ていたいがしかたない。志生が席を立ち、私も立つ。ふたりで出口に向かって歩く。動悸が一気に速まる。ドキドキドキ・・・。出口に行くにはカウンターのすぐ後ろを通る。私に気づいたら・・。気づいたら・・。彼女の後ろに差しかかる。突然周りの風景がスローモーションに変わる。本当に?本当に奥さんなの・・?その時、一瞬彼女が後ろを振り返る。え?と思った時には視線がぶつかっている。!!・・・・???
彼女はそのまま表情も変えず、カウンターに向きなおった。私がわからなかったのか?一瞬立ちつくしそうになるが「萌。」と呼ばれたのでまた歩く。ドキドキ。まだ動悸がしている。間違いなかった。奥さんだった。でもあの時とまるで違う。別人だ。どうしてあんな派手な格好をしているのだろうか。
会計の所で志生がサインしているのを待っている時も彼女を見ていたが、彼女は私の方を一度も見なかった。人違いだったのだろうか。それとも私を忘れてしまったのだろうか。確かに初対面のその日しか会っていない。でもあれだけ顔を突き合わせたのに。
「行くよ。」
志生に呼ばれて私は未練を残しながら歩きだす。その時一人の男性とすれ違う。その瞬間女のカンが働く。
「ゴメン。忘れ物した。」
言ったかどうかで私は再度バーラウンジに向かった。入口でバーテンダーに忘れ物をしたらしいと嘘をつき、そのまま入ろうとする。「お待ちください。」と止められてふと見ると、さっきまで私と志生がいたテーブルに今すれ違った男性とあの人の奥さんが座るところが見えた。やっぱり。今の男。
「他のお客様が入ってるのでこちらで見てまいります。」
バーテンダーがそう言ったのと「すいません。もういいです。」と私が言ったのが同時だった。
・・・やっぱり男と待ち合わせだったんだ。でもいったい誰なのだろう?恋人?まさか。あの人の死を納得できなくて泣いていた奥さんが。あのランチを食べた時の、切なそうな顔が今でもありありと浮かぶ。あの奥さんがもう他に男性がいるというのか。嘘だ。何かの間違いだ。私の顔もわからなかった。きっと人違いなんだ、きっと。そうだよ、そうでなくちゃあの人があまりに可哀想。きっと何かの間違いだ。・・・信じられない。どうしても。
私は混乱した気持ちと自分が見た光景を持て余しながら、エレベーターホールで待っている志生の方へ戻っていった。