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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第81章―茨の重い鎖その10「メタファー・メタモルフォーゼ」―

 通常、“心”は病んでいても全く日常に支障がない。私の場合はなかった。物事の善悪は区別ついたし、いきなり大声を出すようなこともない。一人でブツブツとするわけでもない。そういういわゆる問題行動を起こしてしまうのは、“精神”が病んでいるのであって、心ではない。

 でも心を病むと、自分を取り囲むすべての事に、独自のメタファー要素をもった考え方をするようになる。そういう傾向が強くなる。一般的に親近感を持って表現すると「こだわり」がわかりやすいのかもしれないが、心が病んで生じる思想観念はもっとネガティブで内向的だと私は思っている。その一方でそのメタファー要素を否定したい、覆してほしいとも思っているのだけど、根本的にメタファーに縛られてるから、折角何かの偶然でそういう場面に至ってもアクティブな方向へ自分を導く事が出来ない。結果同じ迷路をぐるぐる廻り、メタファーはますますしこりのように凝り固まってゆく。・・・救いがない。しかもそういう人間は大抵わかっている。自分が病んでいることを。自分の心がいつからか暗闇に捕らえられ、病んでいる部分があると気がつく。気がついた時にはかなりメタファーは湿潤していて、自分ではどうにもならなくなる。これが茨だと私は思っている。いつも心に棘が刺さっていて、ある時ふっと敏感なところを深く刺す。棘だから、針と違ってまっすぐ刺されずに喰い込んでいく。当然痛い。人は誰でも心を痛める場面に何度も出くわす。でも病んだ心は傷つく事にさえ慣れてゆく。・・・輪廻を繰り返し茨は育つ。 


 志生の優しい言葉を聞いても、やはり私の根本的な気持ちは揺らぐことさえなかった。志生は生きていて、私も生きていて、あの人は死んでいる。あの人の奥さんは一人で生きていて、一人で死んでいったあの人を求めている。どこかが間違っている。

 ゴンドラが下に着くギリギリまで志生は私を抱きしめていた。そしてゴンドラから降りるとまた私の手を引いて歩き始めた。その横顔を見上げるともう他の事を考えてるように穏やかだだった。この人は自信があるのだ。私を救えることを。・・二人で生きてゆけることを。富田さんにわかってもらうことを。

「死んでもいい」

あの言葉は強烈に私を打ちのめす。メタファーを大いに刺激する。志生はそれを知らない。今もこのロマンティックな状況に酔っていて、おそらく富田さんの事はカヤの外になっている。でも私は一時もあの言葉から逃れられない。頭から離れないのだ。それを志生に言えばいいのだろうか。どう言えばこの恐怖が伝わるのだろうか。上手く言えなくても言わないよりいいのだろうけど、私にとってはそれを中途半端に理解されたくないという思いがあった。中途半端な理解や知識は時として問題そのものを捻じ曲げてしまう。それも私には脅威だった。

 結局私は志生に話す勇気を出せず、ただ志生の話に適当な相槌をうってその場をやり過ごす。それでも私は充分満たされ、甘い蜜を何度も喉に流しこんだ。私の半分は纏わりつく暗闇に(おのの)いているのに、もう半分は愛情という海に漂って、口の中は甘い蜜でこぼれそうになっている。でも自分が分裂された感覚は全くない。ちゃんと独りだ。私はホテルのバーラウンジに着くくらいまでその感情を行ったり来たりしていた。

 

 バーラウンジは結構混んでいた。私はこんなところに来るのは初めてだった。バーテンダー(店員じゃないですよ。本当に一流ホテルのバーテンダーはカッコイイ。立ち振る舞いから違う。酒を創るセンスがあればいうことナシ:作者)が席に案内する。志生が

「眺めイイとこにして。」

と言うと、彼は頷いて私たちを夜景を一望できる席に案内してくれた。ちょっとテーブルは狭いけど、この眺めには変えられない。そしてラウンジのセンターには生のバンドが入っていて、客の邪魔にならず、でも音は聴かせる・・、そんなスローバラードを演奏していた。

 私は自分が余りにカジュアルな格好をしているのが恥ずかしくなってきた。せめてスカートだったらよかったと思う。トホホな顔になる。

「さあ、本物のカクテルを飲もう。・・ってどうした?」

「だって、私こんな格好で・・。TPOなってないよ。」

「こんな格好って、普通じゃん。いいんだよ、そんな事。俺だって同じじゃんか。」

「でも・・。」

ちらっと周りを一瞥(いちべつ)する。少なくとも私よりもお洒落している女性が多い。しかもGパンはいない。志生は私の気持ちがを見透かしたように言った。

「たかがバーラウンジだよ。格好で飲むんじゃない。気分で飲むんだ。縮こまった気持ちで飲むと、折角のいい酒も本当の味が楽しめない。おおらかな気分で飲むんだ。そういう姿は間違いなく格好いい。服装なんか問題じゃない。もしそんなのが影響するならまず店に入れない。通されたって事は楽しんで下さいって事だから。」

志生の言葉に妙に納得して、ずいぶん気分が楽になる。そうか、服装がダメなら店に入れないのか。じゃあとりあえず安心。・・でもやっぱり少し恥ずかしいけど。

「何飲もうか。」

メニューを見る。定番のものから聞いたこともない、まるで歌の題名のようなものもある。もちろん、ビールだって日本酒だって焼酎だってある。ウイスキー、ブランデー。ワイン。でもやっぱりここではカクテルでしょ!

「何しようか迷っちゃう。」

カクテルだけで軽く20種はある。

「こういう感じの創ってって言えば、適当に創ってくれるよ。」

「え?そうなの?」

「多分。」

でも私はとりあえず定番から。

「お決まりでしょうか?」私たちの様子を見て絶妙のタイミングでバーテンダーが来る。

「俺は雪国。」

「モスコミュールを。」

バーテンダーは押しつけがましくない、静かな笑顔で頷く。

 しばらくするとカウンターでシェイカーの心地いい音が聞こえる。初めて生で聞いたその音はまるで芸術品だ。そのシェイカーを振る彼の手を含めて。ついじっと見つめてしまう。志生が笑った。

「本当に初めてこういうとこに来たっていうのが丸見えだ。」

「!だって・・。初めてだもん。」

そして私たちの前に2種類のグラスが運ばれてくる。同時に志生が注文する。

「サラミとチーズ。」

「クラッカーはどうなさいましょう?」

「つけて。」

私は目の前のモスコミュールにびっくりする。今まで飲んだものと香りからして別物だ。

「乾杯。」

志生が私のグラスに軽く雪国のグラスを触れさせ、くいっと飲む。私も一口。と・・・スッゴイ!美味しい。ウォッカが当たり前に効いている。ちゃんと主張してる。素晴らしい味のバランス。もう服装の事はどこかに飛んでる。お酒って本当に奥深い。

 ふと思い出す。酒の神バッカスは海の神ネプチューンより、ずっと多くの民を溺水させた。そのとおりだ。私は溺れたくなる。メタファー通り越して、メタモルフォーゼになってもいいと。





















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