第80章―茨の重い鎖その9「夜景と情景」―
とうとう自分に起きたすべてを志生に話した萌。死んだ恋人と共に歩こうとしてくれてる恋人。そして志生を求めてやまない昔の恋人、富田さん。「まぼろしの跡」80章を迎えました。読んで下さった全ての方に感謝です。本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。感想、評価よかったらお願いします。必ずお返事させていただきます。樹歩
二人でバルコニーに出た。そこから見る景色は絶景だった。海も観覧車も眼の前だった。風が肌に心地よくあたって、それはもう夕暮れを告げていた。遠くの方からセロファンを重ねてゆくように空が茜色に染まってゆく。私たちは言葉も交わさず、空の色が変わってゆく様を見送った。浮かんでいる雲がオレンジ色のような、ピンク色のような、それでいて真昼の青を忘れたくないような、何とも切ない色で流れてゆく。
私は思う。きっとこの先、私と志生が同じ人生を歩めずに別ったとしても、私は今日のこの空と雲の色を忘れずに何度も思い返すだろう。志生と見た様々な景色、色、物。すべてを愛しく思う。この宇宙に生を受けて、地球という星に生まれ、日本人として導かれ、穂村志生という同じ時代に生を歩く人と巡り合えたことを、今生きとし生けるものすべてに感謝したい。それは私をしばし空に浮かべ、あたたかく素敵な気分にさせた。人を愛することの素晴らしさを、もうこれ以上ないというくらい深く吸い込んだ。そして愛する事で失うことの避けられない哀しさをゆっくり吐いていった。
ふいに志生が私の肩を抱く。愛しい恋人はそっと私の頬にキスをする。言葉の要らない時間が互いの気持ちを紡いでゆく。・・忘れないよ。忘れないから。この先一緒にいてもいなくても。ああ神様、この人との時間のすべてを惜しみなく覚えられる記憶力を私に与えてください。忘れたくないんです、たとえ来世に行っても。もし授けて下さるのなら、私は自分の命も惜しくありません。喜んで捧げてあの人の所に逝きます。でも、でも、どうか志生を幸せに導いて下さい。彼が幸せになるのなら、それが私でなくてもいい。大切なのは彼が幸せになることで、誰が幸せにしたかではありません。・・・・この時の私はまさにそんな気持ちだった。いつもは鼻で笑う神様という存在を心から信じている・・・、そんな心地だった。
「なにか食べに行こっか。」
と志生に促され、私たちは部屋を後にした。
「ここのレストランに行こうか。」
とも言ってくれたけど、さっき外を見ていたのでやっぱり外を歩きたい。そう言うと志生も同意してくれた。
下までエレベーター下り、手をつないでショッピングモールの通路に出る。全国おなじみの店から、雑誌に出てきそうな可愛いショップ、ちょっと入るのに勇気がいそうなブランド直営店・・。どこも明るい照明をかざし、そのレイアウトで手招きをしている。私たちは見るともなく見ながら、多くの人と同じように歩いてゆく。長い通路を抜けると外に出る。途端に肌を新鮮な空気が包む。ショッピングモールは通路まで冷房がきいていて、その人工的な空調がとても居心地悪かった。耳障りと言えばいいのか。音がしなくても、なんとなく造られた空気というのは肌だけでなく耳をも刺すのだ。
夕陽はもうほとんど沈んでいて、空にその名残を残すのみだった。その紅色の残影を見るといつも何故だか知らないけど、場所もわきまえずに泣き叫びたい衝動にかられた。心を痛く刺激する。その日もやはりそういう気持ちになった。そういう空色だった。私はいつもそうするように深呼吸して、その衝動を抑えた。人前で泣き叫ぶには私はもう不似合だった。人前で泣き叫んでも許される年齢というのが、残念だけど世間にはあるのだ。私は無意識に志生の手を強く握っていたらしく、気がつくと志生も私の手をいつもよりしっかり握ってくれていた。それがわかった時、さっきまであんなに泣き叫びたかった高まりが静かになっていった。
私たちはあてもなく歩き、目についた居酒屋に入った。居酒屋と言っても都会の洒落た雰囲気はしっかり醸し出されている。志生はビールを、私はカシスオレンジを頼んだ。中途半端に田舎の地元の居酒屋と違って、都会ならショットバーじゃなくても美味しいカクテルが飲めるかと思ったのだ。
「乾杯」
大事な最初の一口。どんな時でもお酒というのは飲み始めの最初の一口が一番美味しいのだ。はたしてそのカクテルは決してダメとは言わないけど、合格点をあげられるものではなかった。眉間にしわの私に志生が怪訝な顔をするので、私はどうしてカクテルを頼んだのか話した。すると志生は笑って言った。
「そりゃハードルの高い注文だ。本当のカクテルならホテルのラウンジの方が確実だ。いいバーテンダーは居酒屋にはなかなかいないよ。後でホテルに戻ったら、ラウンジに行こう。」
ホテルのラウンジ?そんなとこで飲んだら、カクテル1杯いくらするんだ?ここは650円だけど。
「なんか高そう。」
私がそういうと、志生にたしなめられた。
「こら。今夜は楽しい夜にしようって言ったじゃん。ホテルのラウンジったって、1杯1万もしないよ。良い酒を知っておくのは人生に必要だよ。」
でもその居酒屋は、料理は出来のいいものを提供していた。注文したすべての料理が満足した味だった。そういうのって本当に珍しいので、私も志生もいつもより箸が動き余分に食べた。そしてこれ以上食べると、後のお酒が不味くなるよねってあたりで清算をして店を出た。外に出たらびっくりした。空席を待っているお客が7組くらいいた。
「たいていは“並んでまで食べない”というけど、ここは美味かったな。」
志生が言って私もウンウン。そしていざ、懐かしの観覧車へ。
土曜日の夜は結構遅くまで客を乗せてくれる。行ってみるとやはり行列になっていたが、15分くらいで乗れそうな感じだった。そして行列を見守っているのも以前と同じお兄さんだった。私はなんとなく彼に親しみとまでは言わないが、まるで彼が昔からの知人…例えば名前は知らないが、毎日の通勤で必ず会う(見る)人くらいの感覚を覚えた。多分、あの日と今では私の状況がまるで違うからかもしれない。
少し寒い。観覧車乗り場はその建物の風の通り道だったから、何もない外よりも風の吹く勢いがよかった。まだ昼間は汗ばむこともあるけれど、やはり夜は冷える。もう秋なのだ。
「寒い?大丈夫か?」
そう言って気遣ってくれてる志生も、顔は寒そうだ。さっきまでのホロ酔いが醒めてゆく。
「大丈夫だよ。」
私は意識して微笑んだ。そうしているうちに私たちの番になり、二人の前にゴンドラがやってきた。私の後ろに並んでいたカップルの女の子が「あー。私黄色が良かったのに。」と、聞えよがしにぼやいてる声が聞こえた。フン、ザマミロ。私だって黄色のゴンドラがよかったの!絶対譲ってなんかやらない。私はわざとらしく満面の笑みでゴンドラに乗り、ちらっと彼女の顔を見た。むくれてる顔が見える。知らねーよっ!
志生と私を乗せたゴンドラがゆっくりとあがってゆく。ふと下を見ると、さっきの女がピンク色のゴンドラに乗るのが見えた。
「後ろのコ、黄色が良かったって言ってたね。萌、勝ち誇った顔してたじゃん。」
「私も黄色が良かったの。」
「女って変なの。」
そう言いながら志生が私の隣に座り直す。と同時に私たちは唇を重ねる。きっと、今この観覧車に乗っているすべてのカップルが同じことをしている。ここでこれをしないのは、付き合って本当に間がないか喧嘩してるかだ。でなければこんなにロマンチックな場所でしない方がおかしい。しかも夜。外は二人の為と言わんばかりの夜景。
そしてゴンドラが天辺に来た時、志生がゆっくり唇を離し、「見て。」と外を示す。・・・沢山のネオン、大きな橋のライトアップ、遠くの船の灯り・・。ずっとネオンのオンパレード。宝石をひっくり返したようだ。宝石なんてひっくり返すほど持ってない・・というか持ってないのでわからないけど。
「萌。」
志生がいつになく真剣な声を出した。私は志生を見つめながら次の言葉を待った。
「・・昨日はゴメン。辛かったね。」
いきなり現実を差し出されたので戸惑ったが、私は首を横に振った。
「でも、それは萌のせいじゃないよ。君が寝たあとも考えたけど、やっぱり萌のせいじゃない。いつまでも死人に気を遣うことない。」
死人。志生の言ったその響きは、あの人の死を一層現実的に私に訴えた。
「今そんな話したくない。」
逃げようとする私に志生は言った。しっかり私を抱きしめながら。ゴンドラは下り始めていて、もうすぐ宝石箱は終わってしまう。
「そうじゃない。俺が言いたいのは、俺たちは生きているってことだよ。萌は、俺と生きていくんだよ。それを忘れないでほしい。」
力強く、ひとつひとつ、志生は私に言い聞かせた。子供を諭すように。子供をあやすように。それは私の身体中に沁み行きわたり、心の水面に小石を投げたように波紋をつくった。私は心底感動していた。私なんかの為にここまで考えてくれる人はいない。ゆうべ、私の方が遅くまで起きてたと思ってたが、志生は志生なりに眠れなかったのだろう。あるいはちょっと眠りについてもすぐに覚めてしまったのかもしれない。
「ね、わかった?婚約の話は別としてでいいから。これだけは覚えておいて。」
志生が私の肩を確認するようにポンポンと叩く。迷いながらも私は首を縦に振る。その一方でまた今日見たあの人の奥さんを思い出す。志生の言葉を素直に受け入れられたらどんなにいいか。いつもの私ならここで涙が流れる所だけど。・・・涙を出せない。涙がそのまま返事になってしまうのが怖くて。そして気持ちのどこかで志生の言葉をキレイ事だと思ってしまっている自分。・・・参っているとわかっていたけど、それを通り越したらしい。病んでいる。私の行き場のない心はとうとう病み始めた。