第79章―茨の重い鎖その8「実家とホテル」―
私たちは乗り換えをして目的地へ向かう。どこを見渡しても人、人、人。私はもう会うことないだろうなと思いながらも、彼女・・、あの人の奥さんの姿を目で探す。どうしてこんなとこにいるんだろうとさっきは思ったが、私があの人や奥さんの知ってる事なんてたかが知れてるのだ。ましては奥さんの事は。
あの人の事は少しは知っている。実家は東京だったと思う。一度連れてってもらった事がある。東京タワーのすぐ近くの住宅地。比較的大きい家が並んでいた。はたして彼の家も大きくて、敷地の中に二軒の家屋があった。そのうちの一つ、大きい棟の方が実家。彼に言わせると実家は今使ってなくて、顕在している母親は自分の妹の家に一緒に暮らしているそうだ。父親は彼が医師になって間もなく死んだと言っていた。だから私と言った時、そこは空き家だった。こんな東京のど真ん中で、こんな大きな家に全く人が住んでいないというの自体、私には理解できなかった。
「奥さんとここで暮らさないの?」
そう訊いた時、あの人はただ一言
「萌は俺と会えなくなってもいい?」
と言った。私はそんなつもりで訊いたわけではなかったので、「違う」と首を振った。彼はにっこり微笑んで、それきりその話は終わってしまった。私としても、それ以上口を出すことじゃないと思って何も言わなかった。東京で暮らすつもりならとっくにそうしたのだろうから。
もう一軒の方はあの人の妹さんが住んでいた。同じ敷地内にいながら、ほとんど母親と口を利く事はなかったらしい。どうも彼の家は全体的に親子関係があまりうまくいってないんじゃないかと思った。詳しい事情は彼が話さなかったのでわからないが、妹もほんの時々ノルマのように、母親が生きてるかどうか確かめるだけの為に実家へ顔を出すにすぎないらしかった。でも、想像するに全く心配しないくらい親子の情がなかったら同じ敷地内に暮らさないんじゃないだろうか。私がそう言うと、
「どうかな。そうだったらわざわざ家を建てるかな。結婚もしてないのに。」
と彼が言ったので私はびっくりしてしまった。家が二軒あるだけでも驚いたのに、両方にそれぞれ女性がひとり暮らしをしているというのだから。私みたいな平凡な(平凡って定義もわからないけど。)家庭に育った者には充分理解不能だった。だって実家だけで十二分に広くて二人暮らしならこと足りそうだし、顔を合わさないと思えば合わさずに済むくらいの屋敷だ。部屋も1階2階と数えたら10部屋はあったと思う。
今あの家はどうなってるんだろう。あの人は確か妹さんと二人兄妹だから、あの人が亡くなった現在、私が知る限り女性しか家族がいないんじゃないか。奥さんもそうだけど(そもそも実家とどれくらい付き合いがあったのかもわからないが。近くに住んでないし孫もいないから、実家に行く理由が余りなかったかも)、お母さん、妹さん・・。しかもお母さんが一緒に暮らしているのも自分の妹(多分。私の記憶が確かなら。でも年老いた女二人暮らしか、と思った記憶があるので確かだと思う。)だから。それって心細くないかなと余計な御世話を思う。・・・やっぱり私の知る限りでは奥さんがここにいる理由が見当たらなかった。ただ、階段を下ってゆく彼女の姿は『日常』に見えた。私などは新幹線自体がちょっと非日常だから余計そう思うのかもしれないが、彼女の歩き方はほとんど「普段からこの駅を使っています」的だった。新幹線通勤でもしているかのように。通勤?仕事でもしているのだろうか?いや、そういう感じじゃなかった。
「大丈夫?なんかずっと塞いでるけど。やっぱりさっきの人違いが気になる?」
志生が心配そうに顔を覗く。・・・よそう。考えたってわからないんだから。せっかく志生が私の為にここまで来てくれたんだ。今を楽しもう。いつか淋しく思い出すだけになってしまうかもしれないけど。
「ううん、沢山人がいるなって思って。土曜日だものね。」
努めて明るく答える。私が笑みを浮かべたら志生も笑顔になった。
「ホントだよな。どこから湧いてくるのかな。」
「湧いてって・・。ボウフラじゃないんだから。」
二人でくすくす笑う。そして乗り換えた駅も降りて、私たちは目的地についた。あの日もそうだったけど、やはり人が多い。とりわけカップル。私は思う。日本中のカップルと自覚してる二人の50%は、ここに来た事あるんじゃないかと。50はいささかオーバーだけど、30%くらいいるんじゃないかな。行きたいって希望者も入れたら50いくんじゃないかな。
またもや志生はどんどん歩いてゆく。動く歩道でもどんどん歩く。私は動く歩道に乗ると、自分が速く歩けるようになったといつも錯覚する。そして動く歩道から抜けると一気に元ののろまな私になって、一生懸命足を動かしても、思うように前に進めてないのだ。
高層の、広い展望台のあるタワービルのあるショッピングモールを歩く。その間も志生はどこも寄ろうとしなかった。時計を見ると17時過ぎ。辺りが一気に暗くなって日が短くなったのを確かめる。ショッピングモールを抜けるとこのエリアでは比較的新しいホテルがある。人気急上昇だと雑誌で読んだ。読んだ・・と、え?志生?事もあろうか志生はどんどんそのホテルへ入ってゆく。
「ね、志生。志生。」
「何?」
「ここPホテルだよ。」
「そうだよ。」
「人気があって予約取るのも大変なんだって。いきなり行っても泊まれないわよ。」
「予約してあるよ。」
「だから予約・・えっ?」
「予約してある。俺だって予約してない所にむやみに飛びこまないよ。」
予約してある?いつ?いつ予約したっていうの?
「おい、目が点になってんぞ。」
はっ!
「い、いつ?いつの間に予約したの?」
「さっき。萌が荷物作ってる間に。萌が車に来た時俺電話切ってたでしょ。」
・・・ああ。あの時。ホテルの予約したくれてたのか。・・やだ、私ったら。
「で、でも・・。ここ高いんでしょ?高いのに人気があって予約取れないって読んだよ。」
「読んだ?」
「雑誌に載ってたの。」
「ふうん。それは知らないけど。予約、取れたし。」
「・・取れたんだ。」
「取ったよ。さ、行こ。」
ええ〜?と思いつつ中に入る。赤を主としたモダンなデザインのロビー。この前私たちが泊まった地元のホテルとは全然違う。
「待ってて。チェックインしてくる。」
志生はそう言うとフロントに行った。その姿を見てると・・・慣れてる。やっぱり慣れてる。出張先のビジネスホテルだけでこんな風に振舞えるものだろうか。あの人だって学会の時には結構ランクの高いホテルを使ってたけど、あんな風じゃなかった。・・富田さんとも旅行とか行ってたのかなあ。行っただろうな。あの女性とだったらこういう所もしっくりきそう。・・・はああ・・。ため息。ついたって仕方ないのに。
「お待たせ。」
志生が戻ってきて、私たちはエレベーターホールへ行く。とても静かに動くエレベーターだ。24階で停まった。音がほとんど聞こえずにドアが開く。志生がカードキーを確かめて、
「こっちだ。」
と歩きだす。廊下に引いてある絨毯の感触が靴の裏に心地よい。「ここだ」と声が聞こえて志生がドアにカードキーを入れた。カチャンといい音が響いてドアが開いた。
「わあ・・すごい。」
室内は想像以上に広くて、さっきも言ったけどこの前のホテルとはかけ離れた違い。ベッドのサイズも違う。ツインだったけど、一つのベッドに充分二人眠れそうだ。シャワールームとバスルームが別々にある。ドレッサーもけた違いに広い。
「すごい。すごい部屋だね、志生。」
「ここしか空いてなかったんだ。普通のツインでもよかったけど。」
それを聞いて驚く。
「え?ここって、普通じゃないの?」
「うん。ちょっといい値段だったね。」
ええ?いくらだったの?急に泊まろうって値段なの?・・・と言いたくても怖くて聞けず、口をパクパク。そんな私を見て志生が笑う。
「萌の言いたいこと、なんとなくわかるけど。大丈夫だよ。払えないとこには来ないから。」
・・・脱帽。お手上げ。惨敗。黙ってつっ立ってる私を志生は静かに抱きしめてくれた。
「いいじゃん。たまには。ずっと辛いのを我慢してきたんだから。今夜は楽しいデートをしよう。」
ズットツライノヲガマンシテキタンダカラ・・。優しい。志生は優しい。こんな私に。何もない私に。
私はただ嬉しくて志生の匂いに包まれながら眼を閉じた。この幸せを、本当に私は手放せるだろうか。・・・いい。今は何も考えたくない。今はすべてをこの人に委ねよう。この抱擁もこの部屋も、いつか淋しく思い出すだけになってしまうかもしれないけど。