第78章―茨の重い鎖その7「新幹線事情」―
ふと見ると志生は眠っていた。前、一緒に電車に乗った時も志生は眠っていて、私は起こす役だった。あの時は電車だったのでそれなりに時間がかかったのだが、今日は何といっても新幹線なので早い。あっという間についてしまう。志生が乗ってしばらくしたら眠っていたので、ずっと窓ガラスの自分に話しかけていた。
志生の寝顔、今日は疲れて見える。あんたのせいね。あんたが結局我慢できずに全部喋っちゃったから、志生は色々気を使って、今日だってこうやってわざわざ外に出て、しかも夜も一緒にいようってしてくれて。志生の事だから自分を責めてるのよね。自分が追い詰めたからあんたが喋らざる得なかったって。本当にそうなのかね?あんた、そんなにヤワだったっけ?まあ、もうどうしようもないもんね。言っちゃったんだから。一端口から出た言葉はもう戻んないもんね。どんなに後悔したって。実際今日志生のお母さんに会った時、もうあんたは昨夜の事を後悔してたんじゃないの?言うんじゃなかったって。志生がお母さんに絶対言わないなんて保証無いよね。だってあんたは婚約を白紙にしたいなんて勝手を言ってるんだもの。そりゃしばらくはいいと思うよ。でもいづれは答えを出さなきゃならないよ。志生はさ、あんたを待ってるよ。放っておけばかなり待つだろうね。何も言わないで。言ったとしても当たり障りない言い方だよ、きっと。あんた、その時どう返事すんの?適当に流すの?今そうしてるように。あんたの言い分、本当はちっとも道理が通らないよ。あの人と志生はまったく関係ないんだからさ。要はあんたが誰といたいかってだけだよ。誰と寝たいの?それだけだよ。死んだ人は死んだ人だよ。もう遠い人だ。でも、そういってもあんたは納得できないよね?あの人はあんたを想って死んでいった。最後まであんたを守って。長年の付き合いの奥さんよりたった4年の付き合いのあんたを守って。何から守ったんだろうね?そりゃあやっぱり柵はあっただろうけど、誰にも言わなきゃ済む話だったのにね。そう、あんたは知ってる。わかってる。あの人が何からあんたを守ったのか。あの人は自分自身からあんたを守ったんだ。いつか我慢できなくなってあんたを子供のように欲しがるだろう自分から。でも奥さんには言えなくて、こっそりあんたに物乞いするしかない自分から。かわいそうだよね。いくら身から出た錆と言っても惨めだよね。医師として誰からも崇められたあの人に耐え難い屈辱だよね。誰がそうしたって、あんたがしたんだもんね。確かに男女の中の話だから、あんた一人の責任じゃないと思うよ。でもあの最後に会った日、もうちょっと言い様があったんじゃないの?もう少し話しあったってよかったんじゃないの?そうすれば最悪は避けられたかもしれないのに。だってその前に会った時はあんたあの人と寝たじゃん。いつものラブホで。いつものように。なのに次に会ったら別れる、話すこと無いなんて話、やっぱり有り得ないでしょう?どう考えてもあんたは冷たかった。あんな風にあの人を扱うべきじゃなかったんだ。あんたなりに辛かったんだろうけど、辛いのは自分だけじゃないって事もわかってたんだから。でなきゃ何の為の4年間だったの?何の為に4年も日蔭者の位置で甘んじていたのさ?そういう基本から忘れちゃうから恋人をあんな風に死なせちゃうんだよ。
志生だってこんなにあんたを必要として大事にしてくれるじゃんか。ここまでしてもらって、イイとこだけもらったらハイ、サヨナラって言うの?ずいぶんじゃない、それは?志生はいつかあんたが自分のものになるって信じてる。だから富田さんにも断っていたじゃない。ちょっと弱かったけどね。でも今のあんたにそれをとやかく言う資格はないよね。だって婚約者じゃないもんね。自分で望んで婚約を取り消したんだもんね。あんた、志生が絶対富田さんの所にいかないって高を括ってんじゃないの?天狗になってんじゃないの?そんな事無いって顔してるけど、本当はどうなの?信用できないよね、自分で自分が。世の中で一番信用ならない人だよ。志生だっていつまであんたを信じてくれるかな。富田さんの決意と行動力は並みじゃないよ。40にもなると女もふてぶてしくなるし。(数字を見て気分を害した方、申し訳ありません:作者)なんせ怖いもんがないんだから。死んでもいいって言ってんだから。志生はまともな男だけど、惚れた女には弱いよ。泣かされたんだからわかるよね。そういう男だからあんたにも優しい。惚れたら優しい。今はあんただけかもしれないけど、この先わからないよ。人の気持ちぐらいあてにならないものはないから。志生が何かの拍子で富田さんの事を“ここまで俺を想ってくれてるのか”ってなったら?一緒にいたくても引き離された悔しさを思い出したら?・・・あんたには止められない。少なくとも今のあんたは。
・・・そう。何もかも止められない。今の私は。そして新幹線も。やっぱり速いなあ。また速くなるんだっけ?東京〜大阪間が何分だか早く着くんだったかな?私なんか病院での急患の時とかはそれこそ何分何秒が勝負の分かれ目になり得るけど、新幹線が多少早い遅いは関係ないもんなあ。この狭い日本でそんなに速さを競って、いったいそんなに誰の人生に影響するんだろ?あ、でも志生みたいな仕事してる人にとっては問題大きいのかな。時間に追われる仕事してる人って、きっと私が思ってるよりずっと多いんだろうな。日本を支えてるのはサラリーマンだもんね。うう〜ん、奥深い。ん?私何考えてたんだっけ?ああそうか。何もかも止められないってことだ。止められないし、行きつけない。どこにも。
やがて音楽が鳴り、私たちが降りる予定の駅に到着するアナウンスが流れる。私はまたもや志生を起こす。
「志生。着くよ。」
「ん〜?」
志生が眼をなくなってしまうんじゃないかと思うくらい擦る。・・・昨日私より先に眠ったと思ったけど、やっぱり眠いか。そうだよね。
「志生?大丈夫?」
「また寝ちゃったか。ゴメン、大丈夫だよ。」
「謝ることないよ。」
謝ることない。本当に志生は私に謝ることない。なにひとつ。
新幹線がホームに入る。私たちの号車は一番最後なのでホームにどれくらいの人がいるのかよくわからない。あと少し走ればこの新幹線は終点に着く。でも結構乗る人いるみたい。こんな最後の号車の前にもお客並んでるもん。降りる人もいるけど。
新幹線のドアが開き、一斉に人が降りる。大勢の人の波。私たちの降りたところから改札に下りる階段まではちょっと距離がある。急いで人の波を泳いでゆく人が何人か見受けられる。ああいう人の為に日々新幹線は速くなってんだな。急いでいない私たちは普通に歩いてゆく。志生が前を歩いて、私は後ろ。こんなに沢山人がいても、知らない人ばかりで、知ってるのは志生だけで。そういうのが不思議。と思った途端、私の視界にいないはずの人が映る。その人はすでに階段を下りている。私はまだ階段についてないので、私がその人・・彼女を見下ろす形になっている。どうしてこんなところにいるんだろう・・。一瞬見間違いかと思う。でも違う。間違ってない。間違うはずがない。思わず足取りが速まる。志生がいきなり自分の前に行き、しかもそのまま走ろうとする私を見て、え?という顔をする。でも私は彼女がどの方面へ行くのかが気になる。どこへ行くんだろう?
「おい、萌。どこ行くんだ?」
後ろから志生がついてくる。私は彼女を見失わないよう、その後ろ姿を追う。私と彼女の間には新幹線数号車から降りた客でいっぱいだ。
「萌、萌ってば、おい。」
志生の声が追いかける。仕方なく私は一瞬後ろを振り返る。眼を合わせ、“わかってる”と眼で伝える。そしてまた彼女の姿を追おうとして視線を戻す・・が、もう姿はない。え?眼を離したのはほんの一瞬だ。消える訳ない。誰かの陰に隠れて・・。いない。いない。確かにいたのに。乗り換えの方へ行ったのか?わからない。早足だったのを緩める。志生が追いつく。
「どうしたんだよ、びっくりするじゃないか。誰か知ってる人でもいたのか?」
・・・知ってる人?・・うん、そうだよ。知ってる人だよ。よく知ってる。
「・・ゴメン、人違いだった。よく似てたんだけど。」
「ふうん。」
立ち止まった私たちの周りをまだ大勢の人が通り過ぎてゆく。誰もが知らない人だ。マッタク、カンゼンニ、シラナイヒト。
「じゃあ、俺たちも行こうか。」
志生が私の手を取って歩きだす。沢山の人波を泳いで。知らない他人の海を泳いで。・・・でも間違いない。こんなとこで会うなんて。彼女は私に気づかなかったのか?どこから乗ったんだろう?駅から一緒だったんだろうか。
“あなたと知り合いになりたくないの。だから名前も訊かないわ。”
別れた時の言葉が木霊する。間違いない。あの人の奥さんだった。