第74章―母親の心理その2―
私、最近穂村君が結婚すると伺いました。そうです、ボランティアの時です。
最初はよかったと思いました。本当に親御さんにも心配かけたのはわかってましたから。申し訳なく思っています、本当に。あの時、私がもっとしっかりしていれば穂村君をあんなに振り回さずに済んだのです。でも、こんなこと言うのもおこがましいのですが・・、私は心底穂村君を愛していました。夫がいながらと思われても仕方ないのですが、夫とは、あの、ご存知ですよね、ああいう家ですから・・。政治家の妻は夫婦愛より先に夫のサポート役ですから。もちろん、それも大事な愛情表現だとはわかっていました。ですが、本当に申し訳ないとは思ったんですが、穂村君と個人的に会うようになってから、私の中で夫はただの同居人といいますか、男として見られなくなったのは事実です。
離婚ですか?いいえ、穂村君のせいじゃありません。もう、そういう問題を通り越してましたから。ご存知のように私は子供が産める身体じゃありません。それを承知で嫁いだのですが、夫が出世し始めてから舅姑の中では焦りが出てきたようです。夫に愛人でもいればよかったのですが、夫はそういう事をするタイプの人間じゃなかったので、このままでは自分たちは後継ぎを望めないと思ったんでしょう。まさか自分たちの息子があんなに出世街道に乗れると思ってなかったのも、計算外だったのでしょう。だから、私に穂村君という男性がいるのは離婚させるのにはかっこうの理由になったんです。でも息子には妊娠できない嫁じゃしょうがないと言ったようですけどね。ええ、本人は私と穂村君の事わからなかったようです。姑に見抜かれたんです。やはり幾つになっても女は女です。でも、私は、ちょっと安心した部分もありました。姑は、私が女として変わった事に気がついたのです。夫でさえ気がつかなかったことです。穂村君は、私をもう1度女としてどう生きるかを思い出させてくれた男性です。それでもご両親にご迷惑をかけたのは否めません。何度も謝罪したいとは思ったんですが、穂村さんは私と直には話したくもないだろうと思われました。団体の幹部さんにもそう伺ってます・・、いえ、いいんです。穂村さんのお気持ちはごもっともです。ですが、そういう訳で、謝れずに今日まで来てしまいました・・。本当に申し訳ありませんでした。
母親はとりあえず彼女の話を一通り聞いていた。途中もほとんど口を挿まなかった。そして思っていた。
“確かにね・・。この人だけのせいじゃないのよね。志生だって悪いのよね。もう大人だったのだから、家庭ある人に手を出していいかどうかなんてわかってる事だから。だけど、それなら今日はわざわざ謝りに来たって言うの?もういいのに・・。・・・ん?ちょっと待って。”
「富田さん、志生の結婚を“最初はよかったと思った“って言ったわね。」
「・・はい、言いました。」
「最初って、どういう意味?」
母親がそう言うと、彼女は口をつぐんで視線もまた下を向いた。“何?なんだって言うの?”母親は不思議そうに彼女を見る。・・やがて富田さんは顔を上げた。目にうっすらと涙が浮かんでいる。母親は自分の中の女を思い出す。女として、一瞬でこの女性の涙の意味を認識する。
「私・・、穂村君をあきらめられないんです。どうしても。どうにもならないんです・・。」
「ちょっ・・、アナタ・・!」
「本当にすみません、こんなこと言える立場じゃないのは重々承知しています。今さらこちらに顔を出せる筋合いでもありません、わかっています。」
眼の前で彼女は泣きだした。母親は驚いて声も出せなかったが、はっと気を取り戻し、彼女に詰め寄る。
「ねえ、ちょっと、富田さん、どういう・・。だって・・。」
ううっ・・・ううっ・・・。彼女は嗚咽を繰り返す。
「すみません・・、すみません・・。でも私、穂村君を・・、愛してます・・。」
「ちょっと、富田さん・・。ここで泣かれても・・。だってあなたと志生はもう終わってるのでしょう?」
一瞬母親は、息子が婚約者がいながらまたこの人とも何かあったのではないかと思う。自分の育て方に間違いがあったのかと。
「うう・・、はい・・。今は・・、何もないです・・。むしろ、嫌われてるかもしれません・・。」
それを聞いて母親は安堵する。ちょっとでも自分の息子を疑ったのを後悔しながら胸を撫で下ろし、また彼女に訊く。
「今はって・・、志生に会ったんですか?」
「会いました。・・暁星さんにも。」
彼女はハンカチで鼻を押さえながら答えた。涙で化粧が崩れ始めている。そして首のしわ。それを見ると、やはり年齢は隠せないと母親は思った。それでも自分の40過ぎの頃の顔と比べたら、ずっと若くは見えた。おそらく子供を産んでないからだろう。母親の中で、親としての自分と、女としての自分が交差した。
「萌さんにも?」
言いながら、いつかの晩を思い出す。萌さんから志生はいるかと電話があった夜。てっきり一緒にいるものと思っていたのと、電話の萌さんの様子がどことなく妙だったので覚えている。その時は友達の所にでも行ったかと思ってたし、実際朝方帰ってきた息子はそうだと言っていたが・・。もともと大人になってからは放任してきた。もう自分の事は自分で処理が出来る年だし、仮に女の子と一緒であっても、一晩一緒に過ごすような相手なら、その子は息子にとって特別な人のはずだ。親がいちいち口を出すこともない。そう思ってきたのだが、騙されたか。ついさっき安堵した胸のつかえが再びうずき出した。
「あなたは志生に会ったのはいつ?まさか、一晩・・。」
「先月です。一緒にいました。」
!!やっぱり。あのバカ息子が!!
「あ、あの、でも・・、何もありません。何もありませんでした。」
彼女があわてて否定する。
「嘘言いなさい、今さら。あれだけ惚れてたのに、一晩一緒にいて何もなかったなんて、誰が信じますか。」
「本当です、本当にないです。正直、私はそうなってほしかったですけど・・、おっしゃる通り、あれだけ愛し合ってたんですから・・。でも、穂村君は私に指一つ触れてないです。私が抱きついても何もされませんでした。」
彼女の訴え方がそれなりにリアルだったので、半信半疑は否めなかったが、母親はとりあえず彼女の言う事を信じる事にした。もちろんそうであって欲しいという願いもあったが。
「本当に?」
「はい、本当です。」
「・・志生になんて言われたんですか?」
「暁星さんと一緒になるからって・・。」
ふうっ。よかった。もう一度胸を撫で下ろす。この女性にはある意味気の毒かもしれないが、もう息子と関わりになられては困る。もう30にもなるのだ。早くちゃんとした結婚をして安心させてほしい。孫だって抱きたい。
「それじゃあ、もうあなたの出る幕はないでしょう。」
「・・・・。あきらめきれないんです。」
富田さんは唇を噛んで横を向いた。涙で顔中ボロボロだ。
「・・今なら捨てます。全部・・。穂村君さえ・・」
「うちも困るの。」
母親はとうとうはっきり言った。
「うちは萌さんを志生の嫁と思っています。」
彼女は一瞬母親の顔を見たが、そのまま顔をそむけた。母親はなお続けて言った。
「あなたには気の毒と思うわ。・・本当よ。志生の母親でなくて、同じ女としてそう思うわ。でも、やっぱり私は志生の母親です。・・申し訳ないけれど、あなたをうちの嫁とは認められない。」
「・・・・。」
「萌さんにも会ったなら、あなたと萌さん、どっちが志生にふさわしいかわかったはずです。」
「・・・・。」
「息子をそこまで想ってくれて、親として礼を言います。でも金輪際、息子にも萌さんにも近寄らないでもらえるかしら。本当に息子を想ってくれるなら。」
「・・・・。」
「富田さん・・。」
母親の言葉にも彼女は動じている様子がなかった。黙って顔をそむけたまま、時々しゃくりあげていた。
「・・もうお帰り下さい。これ以上話す事ありませんから。」
母親にそう言われた彼女は黙ってふらふらと立ちあがった。玄関に向かい、ゆっくりと靴を履く。母親はあえて何も言わなかった。すでに母親の頭の中では息子に釘を刺すことしかなかった。靴を履いた富田さんが、母親の方を向いた。
「お邪魔いたしました。・・穂村さんの気持ちはわかりました。」
「そうですか。」
「でも、私もそれなりの覚悟があります。穂村君と、お話はさせていただきます。」
てっきり富田さんが承知したと思った母親はびっくりした。ここまできてもまだ言うか。でもその眼が決心を表している。
「ちょっ・・、さっきわかったと言ったじゃありませんか。」
「ですからこちらのお気持ちはわかりました。ですが、私あきらめたわけではありませんから。」
「富田さん・・。」
「穂村君も暁星さんにも御承知していただいてます。でも、色々考えて、ご両親にもお伝えしたくて来たんです。・・許していただけるなんて、もともと思ってませんから。」
彼女の言葉に母親の顔はみるみる青ざめて行く。
「・・あなたって人は・・。」
さっきまで、女としてほんの少しでも同情した自分が腹立たしい。なんて図々しい女だろう。どうして息子はこんな女が良かったのか。
「失礼いたします。お茶、ごちそうさまでした。」
そう言うと富田さんはもう一度頭を下げ、穂村家を出ていった。その後ろ姿を、母親は怒りで震えながら見送った。そして急いでキッチンへ行き塩を持ってきた。
母親が玄関に戻った時には既に彼女の車が出る音がした。そんなのは構わず、母親は玄関から外へ向かい塩をまいた。