第73章―母親の心理その1―
「すみません、日曜の朝っぱらから。」
「いいえ。でもどうなさったの?何か急な連絡でも?電話じゃ済まない様な事?」
母親はその女性を個人的には避けたいと思ってるくらいなので、本当は日曜の朝っぱらからというより、自宅に来たというだけで十分不愉快だったのだが、同じボランティア団体でやっている以上顔を合わさずにいるのは無理なので、仕方なく愛想良く対応した。最も女性の方もそれは百も承知だった。そして、その母親の気持ちを理解もしていた。自分が嫌われているのは仕方ないことだ。結婚していながら彼女の息子とただならぬ関係になり、しかも身勝手に振り回したのだ。彼女が自分に対して憎悪があっても、それは自分に子供がいないとしても容易に理解できることだった。誰だって子供はかわいい。親にとって子供というのは、例え大人になろうが幾つになろうが子供なのだ。心配するに値する存在なのだ。
「いえ。今日、ご主人は。」
「主人?今日は朝から友人の方と出かけてるんだけど。」
母親は思った。“主人?なんで主人に用があるのかしら?志生ならまだしも。いえ、志生だってこの人はもう関係ないはず。”
「・・私じゃ足りない事かしら?」
女性の訊き方に納得できなかった母親は、さっきまでの愛想も忘れて訝しげな顔をして訊いた。彼女はあわてた様子で
「いいえ、違います。そんな事は。すみません、失礼な言い方でした。」
と頭を下げる。母親はなお我慢しながら訊く。
「どういう御用かしら?団体の事でしょ?」
そう切り出された女性は一瞬顔が固くなった。もともとここに来た時から緊張でひきつった顔をしてたのがさらに固い表情となったので、母親の胸には嫌な予感が急激に広がった。
「・・穂村君の事です。」
!!嫌な予感が確信になって、母親は声も出なかった。しかし内容を聞くまでむやみな事は言えない。
「志生のですか?・・どういう事でしょう?」
「・・・・。」
ここで母親は初めて女性の顔をまっすぐに見た。彼女はちょっと下を向き、視線を床に落としている。わずかな沈黙があった。ふうっ・・。母親は仕方なく言った。
「・・どうぞ。あがって。」
彼女の反応を見ずに母親は奥に行き、お茶の用意の為に湯を沸かす準備をした。やや間をおいて
「失礼します。」
という声が聞こえた。
“・・・それにしても・・。よく家を知っていたわね。以前だって来た事無いのに。志生が教えた事あるのかしら・・。でもあれからけっこう経つのに。今さら志生の事で用なんて。なぜ夫がいるかどうかまで気にしたのかしら・・。もう志生には婚約したい娘がいるっていうのに。あら?もしかして知らないのかしら?その事。もしそうなら、ちゃんと言ってやらなきゃ・・。”
色んな考えが巡る。正直、息子が連れてきた娘が、自分の理想としている嫁になりそうな子かはわからないというのが本音だ。看護婦をしてると言っていた。友人の愚痴を思い出す。昨年友人の家に看護婦の嫁が来た。最初は病気の時などに頼りになるし、看護婦ならさぞ優しいだろうと思っていたら、仕事が忙しくて家族の健康まで気が回らないし、結構口も立って、友人が「早く孫が見たいわ。」と何気なく言ったら「まだ仕事もしたいし、ある程度貯金が出来ないとこのご時世では子供も産めない。」とあっさりかわされたというのだ。「あの言い方だと、なんだか息子の給料じゃ子供も作れないと言われているように聞こえるのよ。そんなつもりないってわかってるんだけど。また言い方がはっきりしてるからねえ・・。看護婦って聞こえはいいけど、嫁としてはどうかって感じよ。」と、その友人は言っていた。息子から看護婦をしている女性に会ってほしいと言われ、実際連れてきた時、少なくとも友人の所よりは可愛げのある娘かという印象だった。でもこればっかりはもう少し時間が立たないとわからない。息子は惚れ切っている。それは手に取るように分かる。というより、この富田さんの時もそうだったが、息子は惚れたら一途であと先なくなるタイプだ。昔からそうだった。今まで3人ほど女の子を紹介された。結局別れたのだが、その度に息子は「俺はあの子と結婚する」と言っていた。またかと思うのが常だったが、一方で遊びで女の子と付き合う事が絶対ない姿勢に感心したのも事実だった。親ばかかもしれない。本当は自分が知らないだけで、適当に遊んでいるのかもしれない。でも少なくとも女の子でトラブルはなかった。付き合ってた子の親から何か言われたという事もなかった。唯一、この富田知紗子さんだけが反対した女性だった。この時だけは、息子から聞いた瞬間頭が真っ白になり、その頬を引っぱたいてしまった。家庭ある女性となぞとんでもないと。しかも年齢もずいぶん上だった。子供が出来ない身体というのも団体で聞いて知っていた。反対するのに十分な理由だった。夫も大反対だった。次男がいるとはいえ、長男は長男。きちんとした結婚をするのが当たり前だと怒鳴っていた。昔くさい考え方だとは思うが、実際夫は昭和の初期の生まれだ。夫も長男だった。だから長男という立場を重んじるのは自然な事だった。息子もそれはわかっていたはずだ。それでも富田さんを選んだのだから余程の覚悟があるのはわかった。だが私たちは反対した。最後まで反対した。志生はわかってほしいと頑張っていたけれど頑として聞く耳を持たなかった。だから別れた、心配かけたと聞いた時には心の底から安心した。別れたと聞いただけで充分だったから特別詳しく中身は訊かなかったのだが。なにかあったのか。だから今頃になって富田さんはここに来たのかしら?
小さな盆にお茶を一つ用意して居間に戻る。居間は玄関のすぐ奥にあるのだが、そこに富田さんの姿はなかった。「?」母親はどうしたかと思い玄関に行くと、富田さんは玄関を上がったもののそのまま突っ立っていた。そして母親を見ると、また頭を下げた。
「やだ、ごめんなさい。てっきり居間にいると思って。」
「すみません。どっちへ行くのかわからなくて。」
さっき私がどっちへ行ったのか見てなかったのかしらと母親は思ったが、それは口には出さなかった。何を話すつもりかは全くわからなかったが、今日限りで済む相手ではないのだ。またボランティア先で顔を見るのは必至である。でも言うべきことは言わなければならない。・・確かに主人がいた方がよかったかもしれない。
彼女を居間に通して座るよう勧め、自分も腰を下ろす。彼女の前に茶托に乗せた淹れたてのお茶を出す。
「すみません。」
「息子のことと言ってましたけど。」
「はい。そうです。」
「・・今さら、どんな話なのでしょう?」
母親の嫌味を含んだ言い方に彼女は肩をすぼめた。だが、ゆっくり深呼吸をすると母親に向かって口を開いた。