第72章―茨の重い鎖その3―
「知紗さん来たの!?」
志生が心底驚いた声を出したので、私はその方が驚いた。
予想できたことだ。彼女はそれくらい必死なのだ。それでいてなるべく筋を通そうとする。大事な息子の結婚話に茶々を入れようというのだ、その親の所に挨拶に来るくらいするだろう。たとえ自分が良く思われていない・・、嫌われているくらいだとわかっていても。
「知紗さん?まだあんたそんな呼び方してるの?」
母親は息子の言い方に疑いの目を向けながら同時にたしなめる。そして私の顔を見て、
「ごめんなさいね、萌さん。」
と、真剣な面持ちで謝ってくれた。あわてて私も
「い、いいえ。あの、知ってるんで・・、大丈夫です。」
と言う。
「そうですってね。あの人、萌さんの所にも行って、自分の気持ちは承知してもらったからって。」
「承知っていうか・・。」
「ちょっ、ここじゃなんだから、居間へ行こうよ。俺、荷物片付けたいし。」
「あ、そうね。どうぞ。散らかってるけど。」
「すみません。」
お母さん、私の事は何とも思ってないみたい。というより、富田さんの事でびっくりしてて、息子の泊まりのことなんて吹っ飛んでるのね。それとも息子を持つ親ってこんなものなのかな。うちは私一人娘だから、結構心配したけどな。でも、それも独り暮らしを始めた最初の頃までだったかな。思いながら、昔母が言ってた言葉を思い出す。
「結局自分の産んだ子だもの、信じるしかないわよ。信じると言っても子供本人というより、自分の子育ての方かな。間違ってないって思いたいじゃない。それにある程度大人になったらあとは本人の人生だもの、親だからってとやかく言えないわよ。子供は親の所有物じゃないんだから。」
・・志生のお母さんもそう思ってるのかもしれない。まして志生はもう30になるのだ。もう親が何か言う年じゃない。それに・・。わかってるのだ。自分の息子が、軽はずみに女性の家に泊まるような人間じゃないという事を。そんな人間に育てていない自信があるのだ。ちゃんと自分が愛した女性を守り、何かあればきちんと責任を取る。いや、責任を取るつもりじゃない女性とはそもそも付き合わない。ましてや親に紹介しない。自分の息子に、自分の息子に注いできた愛情に、揺るぎない自信がある。・・・そんな気がした。そして、それはこれから居間で繰り広げられる場面で確信に変わる。
「萌さん、座って。ごめんね、今日来ると思ってなかったから何ももてなすものがないわ。」
お母さんはそう言いながら、私を居間へ通した。テーブルに茶托が一つ置いてあった。茶碗もあった。富田さんに出されたものと容易に察しがつく。それを片づけようとしたところに私たちが来たのだろう。ばったり会わなくてよかった。なんせこっちは、昨夜の富田さんの一件より大きな波をかぶったばかりだ。昨日の今日で会ってしまうんじゃ身が持たない。
「ほんとにね・・、ついさっき帰ったのよ。びっくりしたわ、突然みえたから・・。何の用かと思ったけど、団体の事かと思ったから。」
お母さんはまるで言い訳でもするかのようにテーブルの上を片づけながら言った。そしてキッチンの方へ行ってしまった。志生もまだ自分の部屋から来ない。仕方ないので腰を下ろし、見るともなく今を見回しながら暇をつぶす。
しかし。さすが富田さんだ。やってくれるなあ。ここまでくると、驚きを通り越して感心しちゃうよ。アッパレアッパレ。目の前の、もうそこにはない茶托を見ながら私はそう思った。それにしてもすごい勇気だ。私の所に来るよりも勇気が要ったんじゃないか。昔付き合ってた段階で志生の両親(特にお母さん)に反対され、拒まれていたのだ。子供が出来ないという理由で。年齢の差の理由で。・・第三者的に見れば気の毒と思う。彼女だけのせいだけではないと思う。でも志生の親にもそれなりに思いがあって反対したのだろうからどうにもならない。それをわかっていながらここに来たのだから。でも何を言う為に来たのだろう。やはり許しを乞うためか?・・息子さんとどうしても一緒になりたい。婚約者がいるのはわかっているし、その女性にも会ってきた。彼女はすべて息子さん次第だと言ってくれた。つきましては息子さんと連絡を取るつもりなので承知しててもらいたい。ここに電話を入れる事もあると思う。・・そんなところか。
そんな事を思っていたら志生が戻ってきた。私の顔を見て少しばつが悪そうに言う。
「・・びっくりした。何しに来たんだろ。」
「志生の親に言いに来たのよ。自分の決意を。」
私が平然と言ったので志生は“まさかあ?”とでも言いたげな顔をしたが、すぐ“そうか。”という表情になった。そこへお母さんが入ってきた。三人分のジュースを持って。それを見て志生が
「ビールは?」
と言った。こいつこんな時まで・・。私が思ったのと同時にお母さんが言った。
「まだ昼間。いくら萌さんが運転してくれるったって甘えすぎ。せめて話が終わってからにしなさい。」
「そんな話、飲みながらじゃないと聞けないよ。」
嘘つけ。どんな話でも飲みたいんじゃないか。言いたいけど我慢。
「どんな話でも飲みたいんでしょ。でもダメ。ちゃんと聞いてくれないとこっちも困るし。」
・・・さすが母親。よくわかっている。