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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第70章―茨の重い鎖その1―

今までのあらすじ:看護婦の萌と患者の志生は入院をきっかけに知り合い、結婚の約束を交わす。しかし、お互い過去の恋愛に阻まれる。志生のもとには昔の女性が現れ、萌は昔の恋人が自殺したことで苦しむ。志生に隠してきたけれど、とうとうすべてが露わになる。・・・まぼろしの跡、70章まで来ました。読んで下さっている皆さんのおかげです。深く感謝申し上げます。良かったら、評価や感想もお寄せ下さい。返事を必ずいたします。あなたの足元にいつも花が咲いてますように。樹歩

 うつらうつらとまどろみの中にいた。眼を(つむ)っていても、朝がとうに来た事はわかっていた。今日も外は晴れているみたいだ。瞼を閉じていても明るさがわかる。

 でも眼を開けたくなかった。現実にまた戻らなければならない。志生の顔を見て、なんて言えばいいのだろう。嫌な話を聞かせた、聞かなかったことにしてほしいとでも言うのか?今さらどうにもなりはしない。1度口から出た言葉はもう戻らない。こぼれた水のように。でも水なら拭く事も出来る。蒸発してしまえば跡形もなく消える。言葉は出来ない。なすすべなし。

 志生の手がまだ私を抱いてくれているのがわかっていたので、私は寝たふりを決め込んでいた。本当にどんな態度をとったらいいのかわからなかった。そして志生がどんなふうに私に接するのかも。志生だって戸惑っているに違いない。あんな話を聞かされては誰だってそうだと思う。たとえ志生が聞きたがっていたとしても、本当に話して良かったのかとまだ考えている。でも昨夜のあの状況で突発的に嘘をでっちあげる事は無理だった。それでなくとも、富田さんに“死んでもいい”とまで言われて、混乱しそうだったのだ。しそう、で済んでたのが、志生の問い詰めのせいで“した”になってしまった。

「萌、萌。ゴメン。」

志生が小さい声で囁く。寝たふり終了。まるで今気がついたように薄眼を開ける。

「・・ゴメン。手をどかすよ。トイレ。」

「ん・・。」

私は寝ぼけたようなふりをして少し頭を起こした。志生が腕を私の頭からゆっくりはずす。そしてそのまま背中を見せて起き上がり、ベッドから降りてトイレへ行った。その後ろ姿を、私は同じように薄眼で見ていた。ああ、あの背中は・・果たしてこれからも私のものだろうか。なんだか遠く見えた。同じ部屋にいるのに、志生と私の間には、薄いセロファンのような隔たりがあるように感じる。とても薄くてお互いを確認できるのに、でも素肌に触れる事が出来ない。そんなもどかしさのある距離。

 しばらくすると、冷蔵庫のドアを動かす音がして志生が戻ってきた。手に昨夜コンビニで買ったミネラルウォーターのペットボトルを持っていた。私はもう寝たふりはやめて、志生の一連の動作を愛しく思いながら見ていた。志生は私の前でペットボトルの蓋を開けて、そのままゴクゴクと飲んだ。いつも見てしまう、その喉元。男性の、一気に飲み物を飲んでいる時に動く喉の動きを、私はとてもセクシーに思う。今朝の志生は、いつにも増してイイ飲みっぷりをしていた。私の大好きな構図。でもそれは誰も知らない。飲みながら志生が私を見る。“あ、起きたんだ”と、その眼は言っている。私は頷く。いつもこうして言葉がなくてもお互いの言いたいことを分かり合えるなら、いや、そもそも人間に言葉などなかったら。それは余りにありえない事だが。お互いが本当に相手に伝えたいことだけ伝える手段があって、言葉という全てに共有する手段がなかったら。あるいは私たちはこんなに傷つけずに、そして傷つかずに済んだかもしれない。もちろん、言葉は文化だ。人間らしく生きていく上で、言葉ほど自分を表現するに容易(たやす)いものはない。不必要とはとても言えない。でも、そんな不自然な夢物語を描くほど私は参っている。ほんの少しでも核心に触れられたら、泣き叫んでしまいそうなほど参っている。唯一自分に安心しているのは、それを自覚できてるという事だ。

「飲む?」

大きなペットボトルのミネラルウォーターを3分の1ほど飲んだところで志生が言った。私はまた頷いた。志生はそのペットボトルを私の口元にあててくれた。私はベッドから少しだけ身体を起こし、口元にあてられたペットボトルから中のミネラルウォーターを飲んだ。ひと口ひと口飲みながら、何気に志生の顔を見る。志生は私にいつもと変わらない優しい視線を注いでくれている。喉から胃に向けて水が落ちてゆくのがわかる。それと同時に身体の奥から潤われていくのを感じる。とても美味しく感じた。昨夜、酷い言葉の汚物が通った道を、今度は透明な液体が下りてゆく。ああ、満たされてゆくの身体だけじゃないんだ。私の心まで水と共に志生の優しさで満たされてゆく。何も確かめなくてもわかる。志生は、もう昨夜の話はしないだろう。何もなかったように今日という日を過ごしてくれるだろうと。

 そして私の口からペットボトルが離れて、その代わりに志生の唇が私の口に触れた。最初は触れて、やがて塞がれ、それは私にメッセージを伝えてくる。私を愛しいと。誰より愛しいと。一瞬、昨夜は歯磨きをしなかったから悪いななんて思う。でもそれもほんの一瞬。志生だってあのまま寝たのだ。そんな事は今どうでもいい。あなたの唾液なら多少汚れていても構わない。私も志生のそれに応えて彼の唇の動きに合わせる。私たちはまたベッドに深く身を沈め、それまで深海の底で身動きしなかったのを忘れる様に互いを抱き合い確かめ合う。また一瞬昨夜はお風呂にも入ってないななんて思う。どうしてこんな時にそんな些細なつまらない事を思ってしまうんだろう。女の悪い癖か。でももう志生は止まらないだろうし、私も止めたくない。どうでもいい。サバンナの動物は、互いの身体を舐め合って綺麗にするじゃないか。こういう時、自分が人間であるというのが邪魔だ。変な理性が邪魔だ。ただ愛する男のことだけ求めればいいのだ。ひたすら。

 私は志生の背中に両腕をまわして、覆いかぶさってくる愛しい人の身体を受け止めていた。その時唐突に昨夜自分が思った事を思い出した。“この春まで知っていた背中はもうない。”そうだね。もうあの背中も、私より私をよく知っているあの指もないんだね。何処にも。世界の果てにも。・・・でも既に私の身体は、今ここにある愛しい人を受け入れる準備が充分できている。いつでも彼を受け入れられる。この大きな波を抗う事は不可能。だけど、本当にあの人は何処にもいないのか?本当にあの指は、胸は、頬は、髪は、唇は、背中は?もしかして志生を通じて私を抱こうとしているのではないか?

 認めざるをえない。私は志生を愛していながら、まだあの人に囚われているのだ。志生の感触の中にあの人を探しているのだ。それは私の意識とは関係なく行われているのだ。もはや私に選択権も決定権もなくて、ただ囚われているのだ。強く。固く。茨の重い鎖が何重にも巻かれていて、私を絶対放そうとしない。

 だけど、その混沌の中で私は必死でもがいている。必死で志生を求めている。どんなに小さな手探りでもいいと。どんなにささやかな手掛かりでもいいと。それを朝っぱらからするセックスで、ほんの少しでもいいからこの身に刻まれたらいいのに。そしたらダンスの相手が志生しかいないって、心から信じられるかもしれないのに。















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