第7章―点滴とBGM―
やっと仕上がりました…第7章。お読み下さってるかたには本当にお待たせしてすみませんでした。どうかこれからもよろしくお願いしますm(__)m 樹歩
病棟では、朝、“申し送り”というのがある。夜勤者が日勤者に夜間帯の患者の様子を伝える…というものだ。もちろん逆に、夕方は日勤者から夜勤者に“申し送り”がある。一般的に業務はこの“申し送り”が終わってから始まる。
朝一番の業務は点滴。ワゴンにたくさんの点滴が準備されている。夜勤者が用意してくれたものだ。
何人かの看護婦で点滴をこなす。たくさんある中に穂村さんの名前を見た。
思わず気持ちより先に手が出た。
「彼の部屋に行く口実ができた。」と思った。そう思った途端、胸がまた高鳴る。不思議な感覚。
コンコン。思いがけず大きなノックになってしまう。そうしないと、自分の鼓動がつつぬけになりそうだ。
「…。」
?返事がない。
「失礼します。…穂村さん?」
そこに彼の姿はなかった。
「どこ行ったのかしら。」
何となく拍子抜けした気持ち。…ま、いいや。ほかのひと(の点滴)を済ませたらまた来よう。そう思い振りかえろうとした時、
「あ、点滴。」
と後ろで声がした。
…!私はびっくりして点滴の入ったトレーをを落としそうになった。
「びっくりした。驚かさないで下さい。」
「え、驚いたの?別に大きい声も出してないのに。」彼は言いながらベッドへ近づいた。一瞬すれ違う。また動悸が始まる。
「う…後ろから声が聞こえたら、誰でもびっくりしますよ。」
言いながら声が上擦っているのがわかる。全身に緊張が走りまくる。顔が赤くなってる気がする。思わずうつむく。彼の顔が見られない。恥ずかしい…。
「どうかしました?」
「…え、いいえ。」
穂村さんの声でわれにかえる。
「て、点滴です。」
「わかるよ、だって持ってるじゃない。」
笑いながら彼は言った。
「あ、そう。そうですよね。」
つられて私も笑ってしまった。彼も笑った。寝顔もよかったけれど、笑顔もいい感じだった。またたくまに全身の緊張が溶けてゆく。
「あはは…」
「くすくす…」
しばらく私達は笑いあった。
「…ごめんなさい(笑)…、点滴しましょうね…。」
「(笑)そんなに笑いながら針射すの?失敗しないでよ(笑)」
「だ、大丈夫ですよ。…じゃあ腕を出してください。お腹の痛みはいかがですか?」
私は彼の腕を摩り(血管を出しやすくする為)ながら、聞いてみた。彼の腕は男性の腕のわりには比較的細めで、肌触りがすべすべしていた。
今まで沢山の患者さんと知り合い、多分世間の人より沢山の男性の腕を触ってきているけど、こんなに触り心地のいい腕は初めてだった。仕事を忘れそうだ。
「腹はずいぶん落ち着いてきたんだけど…毎日点滴だから今は腕が痛いよ。」
私の煩悩を遮るように彼が話した。
「そうですよね。もう4日めですものね。でも、水分を入れて早く石を出さなければ…。じゃ射しますよ…、はい入りました。大丈夫ですか?」
「大丈夫。今日はそんなに痛くなかったよ。よかった。」
よかった、という彼の微笑が、また私を射る。やはりこの人の顔が好きだ。どんな人かはわからないけど、少なくともこの人の見せる表情が好きだ。
「穂村さんがよかったなら私もよかったです。」
私も精一杯微笑んだ。そして病室を出た。
仕事をしながら、心のどこかで穂村さんを意識している私がいた。同時に別れた彼も浮かんだり消えたりした。穂村さんへのこの気持ちが何なのか、まだはっきりしない。でも、そんな自分が心地よかった。恋人と別れたばかりなのに…とも思うのだけど、失恋に泣き暮らすよりはよっぽどいい。
もちろん、あの人のことは気にかかる。さすがにあの人でも淋しくなっているだろう。同じ類の仕事しているばかりに、どうしてもお互いを思い出すことは多い。少しは切ない思いをしているだろうと、それくらいの自惚れは許されるんじゃないかと思う。
バタバタとその日のノルマをこなしていると、ナースコールが鳴った。穂村さんの部屋からだった。
「どうしました?」
「あ、点滴終わりました。」
「はい、伺います。」
コールを切ると同時に胸が高鳴る。私がコールに出るようにしてくれた(そんなのがいるとしたらだけど)神様に小さく感謝した。
「失礼します。」
「あーよかった。今日は早い。」
「?」
「昨日かな、終わったの知らせたんだけど、看護婦さんがすぐ来てくれなかったんだ。トイレ我慢してたからキツくて。」
「あ、そうでしたか。それはすみませんでした。」
言いながら、急いで点滴の針をはずす。
「…きみのせいじゃないじゃん。それにわざとじゃない事くらいわかってるよ。」
「…ありがとうございます。」
深い意味で謝ったわけではなかった。なのに、思いがけずの優しい言葉…私は抜いた針を点滴ボトルに挿しながら小さな声で返事をするしかすべがなかった。
「謝ったり、お礼言ったり忙しいね。」
彼は言いながらベットから降りようとしていた。トイレだろう。
「大丈夫ですか?」
軽く手を腰に添える。でもそんなのは必要なかった。手早く彼はベットを降り、私の横に立つ形になった。…私の目線の高さに彼の肩があった。どきどきどきどき…胸の高鳴りは、すでにBGMだった。