表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
まぼろしの跡  作者: 樹歩
68/141

第68章―おぞましい私―

 言えなかったの。どうしても言えなかった。言いたくもなかった。自分のせいで一人の人が人生を終わりにしたという事実を、埋められる所があるなら埋めに行きたかった。

ねえ、志生。私だって安易に家庭のある人を好きになったわけじゃないのよ。でも、好きになってしまって、たまたま彼も私を気にいってくれて、私は何も求めなかったけど、あの人は与えられるものは惜しみなく私にくれたわ。未来以外は。奥さんと別れる気がなかったの。でも私、今はそれがどうしてだったのかわかる。あの人は私より奥さんを取る事で奥さんと私と、両方を守ろうとしてたの。両方に自分の出来る限りのことを与えようとしてた。でも私がそれを壊したの。疲れたの。本当に疲れて。ただ一言、本当の気持ちを言ってくれれば、もっと別の方法もあったはずなのに。あんな別れ方しなかったのに。

 志生と出逢った時、どうしてこんなに惹かれるのかわからなかった。あなたの静かな寝顔にずいぶん元気づけられた。どうしてかわからないよ、今でも。だけど、あなたとあの人と別れたのは全く別の話だよ。二股出来るほど器用じゃないよ。

 あなたといるのがただ幸せで、他には何にも要らないと思った。ずっとずっとあなたと同じ人生(みち)を、あなたが見る方向だけ見て歩いて行きたいと願ったよ。本当に。でも、あの日の朝刊であの人の自殺を知った時、もう私は幸せになってはいけないと思った。あの人は奥さんの事さえ放棄してまで暗闇に飛び込むことを選んだの。そうさせたのは私なの。

ねえ、自分という存在が、自分が思うより誰かにとって重要だなんて普段意識する?仮にそう思っても、自分がいなくなったらこの人は死んじゃうからなんて考えながら、他人(ひと)と付き合う?そんな、長年連れ添って今さら何処へも行けなくなった老夫婦のような世界、私には想像できなかった。あの人は誰からも信頼される医師だったし、本当にまだまだこれからだったわ。もう少し医師同士の派閥の波に乗っていったら、きっと教授の椅子だって夢じゃなかったと思う。本人は患者のそばにいたいから、つまらない教授のポストなんて興味ないって言ってたけど、もしかしたら流れが変わったかもしれないわ。あの人が生きて仕事を全うすることで、死んでも仕方ない命をたくさん救っていたと思う。それくらい優れた医師だった。あの人以上に尊敬できる医師いないもの。少なくとも私にとっては。なのに、なのに、私が全部おかしくしちゃった。あの人の人生も、あの人の奥さんも、そしてあの人が一生懸命面倒を見てた患者さんたち。みんな、私が壊しちゃったの。そんなつもりなかったんだけど。

 志生、私は人殺しよ。たとえ直に手を下してなくても、そんなのは大差ない事だよ。ううん、余計始末悪い事だよ。私の知らない所で血が流れたんだもの。あの人が血を流しながら人生の最後を迎えてる頃、私はあなたの腕に抱かれて極上の雲に乗ってたんだよ。えらい違いだよ。許されない事だよ。知らなければ全て許されるなんて、子供に言う言葉だよ。

 志生は、本当にこのままでいいの?富田さんがこのままあなたを失う事で死んでしまったらどうするの?それをあなた、“ああそうですか”って受け入れられる?出来ないでしょ?

私だって思おうとはしたのよ。仕方なかったんだって。不可抗力だって。でも無理だよ。そんな風に思えないよ。この気持ちは誰にもわからないよ。絶対わからない。将来ある医師と不倫を4年間して、散々待っても一緒になれる事はなくて、でも愛せるだけ愛して、もらうだけもらって、最後には自分の思い通りの恋愛が出来ない事に疲れ果てて、相手の言葉を聞かずにある日突然一方的に別れて、そのあと新しい恋に落ちて、新しい恋人と理想の恋愛をして、結婚もとんとん拍子に決まって、お互いの親にも気に入ってもらって、もう自分の人生はバラ色だって時に、突然新聞で昔の恋人が自殺したなんて叩きつけられたことを経験したことのある人じゃなければわからないよ。

言いたくなかったの。志生に知られたくなかったの。不倫の事も。彼の自殺の事も。だって志生には関係ない事だもの、知ってしまえば負担をかけるだけだよ。当の本人だってこんなにしんどいのに。だから富田さんの事もあれから話をしなくなったの。でも、あのまま結婚の話が進んでしまうのも納得できなくて、あなたに婚約を白紙にしてほしいと頼んだの。私の態度が明らかに変わったから、志生が不思議に思うのは無理ないと思った。でも理由は言えない。どうしたらいいのか、どう言えば志生に誤解をさせないようにわかってもらえるか、本当に出口がなくて。それを考え始めると眠れなくなってしまって・・。しかも寝れれば寝たで嫌な夢を見て。怖い夢よ。砂浜でね、私は蟻で、そう、蟻んこの蟻。一生懸命歩くんだけど、どこにも辿りつけなくて、挙句の果てには蟻地獄に堕ちるの。どんなにもがいてもどんどん身体が砂に埋まっていくの。嫌な感触よ。口にも、耳にも、鼻にもザラザラした砂が入るの。ううん、全身の毛孔から砂が入っていくという方が当てはまると思う。そういう夢。

 仕方ないわ、どんな夢を見たって。あの人が最後に見たものと比べたら、何を見たのかもわからないけど、多少おぞましくても仕方ないわ。それより何処へも逃げられない、誰にも償えない罪を背負っているのに、のうのうと幸せになろうという事実の方がよっぽどおぞましい事よ。だから私は迷った。あなたとこのまま結婚していいのかどうか。あれだけあなたを望んでいる富田さんとやり直した方が志生にとって幸せなんじゃないか。でも志生の幸せは志生にしか決められない事でしょ。私はもう、誰かの人生を自分の物差しで測るのが怖くなったの。たとえ志生のでも。誰かの人生を背負うって事がもう怖いの。いっそあの人を追って死ねたらとも思った。その方が楽かもしれないと。でも・・、こういう事を言う自分が本当に冷たいと思うし、思われても仕方ないんだけど、私はあの人を追って自殺をするほど、もうあの人に気持ちがないの。会いたいと思わない。死んで会えたとしても出る言葉は恨み節よ。あんたのせいで私の人生終わっちゃったって。・・・それに志生と離れたくなかったの。志生と一緒にいたい。それしかなかった。私は自分の心に蓋をして、一生この十字架を背負いながら、あなたのそばにいようかと思った。苦しいだろうけど、少なくともあなたを失わないで済む。100点満点の幸せじゃなくても、あなたのそばにいられるだけで十分満たされる。ずるいよね。幸せなんかなれないと思いながら、やっぱり心のどこかであなただけは手放したくなかった。

 ごめんね、騙してるつもりはなかったの。でもあなたにしてみれば納得できないのは無理ないよね。あなた、今の私の話を聞いても何か私に言える?あなただってもしかしたら、私と同じ立場になるかもしれないのよ。富田さん、あなたを失うこと以外に怖いものは何もないって言ってた。あれは本気よ。本当に怖いものがないのよ。それがどれくらい私にとって脅威か、あなたわかる?私は怖い。あなたを欲しがったことで富田さんがどういう行動に出るかと思うと。もう私は誰の人生にも影響したくない。そう思うと、あなたと結婚することさえ迷ってしまう。でもあなたを愛してる。あなただけを愛してる。蟻地獄に堕ちてしまっても。なめくじになっても。いいのよ、なめくじだろうがなんだろうが。純粋に生きてるって事を思ったら、私なんかよりずっと上等よ。まともな生涯よ。私は何処にも行けないもの。志生、ごめんね。本当にごめんなさい。でも今は何も考えられない。あなたのことも。あなたと私のことも。富田さんにも何も言えなかったのはこういう状態だったから。富田さんの話をすれば、必然的にこの話をしなければならなくなる。それを避ける為に、富田さんがここに来た話もしなかったの。でも結果的には志生を疑わせただけだったね。本当にごめんね。ごめんなさい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ