第66章―万事休す―
「知沙さん、そんなことまで萌に言ったんだ・・。」
志生に富田さんとの話を大体の輪郭で話すと、志生はそう言った。
「知沙さんとの付き合いで嘘をついたのは悪かった。萌にどう思われるかと思ったら言えなかったんだ。」
「・・・そう。」
「正式に離婚したと噂で聞いた後、俺は彼女の実家に連絡はしたんだ。家族の人が出て、全然相手にされなかった。その後に知沙さんから別れの伝言があったから、もう、俺はそれで終わったと思ったんだ。彼女が独身になったから、縁があれば彼女の方から連絡が来ると思った。しばらく待ったよ。でも来なかった。もう待ちくたびれてたし、出張で地元から離れるようになってからだんだん彼女への気持ちも薄らいできた。立ち直れるかな、と思ってた所で萌に出逢ったんだ。」
「そっか。」
そっか。一応筋は通る。私に不倫の経験を知られたくないという気持ちもわかる。
「もう、いいよ。よそう、この話は。」
私はそう切り出す。今すぐ答えを出せないので話を長引かせたくない。富田さんのあの言葉だってただのハッタリかもしれない。そんな簡単に失恋で自殺されたんじゃかなわない。女は感情的になると咄嗟にとんでもない事を言い出すから、富田さんが本気かどうかなんてわからないことだ。
でもその一方で富田さんならやりかねないんじゃないか、と思う。あの女性は本気だ。本当に志生とよりを・・、いや、人生をやり直したいと思っている。私と別れても、富田さんと一緒なら志生は幸せになれるだろう。あれだけ愛されているのだ。もしかしたら私といるよりも志生は・・・。いや、幸せなんてものは自分で感じるものであって、他の人が量ってわかるものじゃない。大事な事は・・。何なのだろう?何を大切にするべきなのだろう?何を守り、何を優先するべきなんだ?さっき富田さんと志生のやり取りを見て焦ったのは確かなのに。志生を失うかもと思っただけで全身の血が逆流したかのようだったのに。私にとって志生が何より大切な存在なのに。
「死んでもいい。」
あの言葉が怖い。簡単に口にできる言葉だろうか。富田知紗子は簡単にそう言う事を言う女性なんだろうか。そうは思えない。まるで私の一番もろい部分を知ってるかのようだ。それとも私がナーバスになりすぎているのだろうか。本当に大事な事は?
「・・やっぱり何かあるんだ。」
志生がため息まじりに言う。
「何?」
「萌の性格だったら、こんな中途半端な形で話を終わらせないと思うんだ。なのに今夜は引きが早い。」
スルドイ。痛いところを突かれる。
「そんなことないけど、過去の事でしょ。」
幕引きを狙う私に志生の追い打ちがかかる。
「でも萌らしくない。知沙さんの言う事を鵜呑みにするつもりはないけど、やっぱり引っ掛かる。俺との婚約も伸ばしたいと言った。知沙さんにははっきり言わなかったみたいだけどね。それって事はどちらにしろ迷ってるものがあるってことじゃないのか。」
「・・・・・。」
万事休す。どうして準備が出来ないうちに追求だけ叩きつけられるのか。答えを用意しなかったからでこそか。結局私が悪いのか。
志生は黙って私の返事を待ちながら私を見つめてる。そんなに見据えられると、文字通り穴が開きそうだ。いや、居場所がなくなったナメクジのように小さくなって溶けてしまいそうだ。私は蟻地獄にはまって堕ちるしかないナメクジだ。いっそ記憶をなくしたい。言葉をなくして、口を噤みたい。
「・・なんで何も言わない?」
志生の容赦ない言い方に私は無駄な抵抗をする。
「・・この前待つからって言ってくれたじゃない。」
言いながら、どこまで通用するかなあなんて思う。どこまで持つかなあ。
「言ったよ。待つのは構わないさ。君がちゃんと理由を話してくれたら・・、話さなくても必ず俺の所に来るって確証があれば。」
「志生から離れる気はないって言ったよ。」
「本当に?」
ホントウニ?ホントウニワタシハ。
「・・・。」
「もう1度訊く。本当に?本当に俺と別れずに、いづれは一緒になる気があるのか?」
万事休す。万事休す。ああ、耳も聞こえなくなってしまいたい!
「そんなに追い詰めないで。」
「返事になってない。」
とうとう私は錯乱する。頭の中が靄でいっぱいになり、普段はきちんと語られる文章が、ただの単語の羅列と化す。
「言えないの。・・私が悪いの。でも言えない。」
「答えになってない。・・俺の他にも好きな男がいるってこと?」
違う、違う。そんな事無い。私は首をぶんぶんと左右に振る。それに伴って靄がどんどん広がる。混沌として逃げるところがない。
「志生は間に合うかもしれない。私は間に合わないの。」
「?・・何言ってる?間に合うって何が?」
「もう誰も私のせいで死なせたくない。」
「死ぬ?死ぬって誰が?」
シヌッテダレガ?ダレガシヌノ?チガウ。モウシンデル。カンゼンニシンデル。カンゼンニオワッテル。マニアワナイ。
「ああああああああああああーっ!!」
部屋中に私の嗚咽が響き渡る。
「萌、どうしたって言うんだ、萌!」
もう私の耳にも眼にも、志生は届かない。完全に映らない。私は堕ちたのだ。暗闇に。永遠の蟻地獄に。・・・ああ、やはりあの時、志生と別れていたらよかったのだ。こんなに好きになる前に。そしたらこんなに苦しまずに済んだ。誰も好きにならずに済んだ。万事休す。