第65章―彼女の逆襲その5―
志生と私が私の部屋に着いたのは、もう10時をとっくに回っている頃だった。結局私が何か言おうとする前に店員から
「すみません。そろそろ閉店なんですが。」
と言われ、中途半端な状態で店を出る形になった。外に出た後、富田さんは場所を変えて話を進めたいようだったが、志生がそれを止めた。
「萌とちゃんと話したいんだ。・・知沙さんの気持ちはわかった。ずっと俺の事なんか想ってくれていたのは嬉しいと思う。でも今俺が惚れてるのはやっぱり萌だ。知沙さんのこと云々(うんぬん)より、まず萌と今日までの流れを話し合いたい。それと知沙さんの事とは別なんだ。」
「どうしても?もう、私があなたの心に入り込む余地はないの?暁星さんに酷い事言ったから?」
「違う。今言ったとおり、それとこれとは全く別の問題だよ。俺の気持ちの問題だ。」
「・・今日はこれ以上話しても、きっと平行線ね。」
「・・・そうだね。」
「わかった。今夜は帰るわ。でも私はあきらめないから。ね、暁星さん。」
急にこっちに話が飛んだのでドキッとしたが、もう私は返事しなかった。ただ富田さんを見つめる。富田さんは私の方にゆっくりと近づいてきて小さい声でこう言った。
「私は本当に何も怖くないの。穂村君を失う以外は。穂村君の為なら・・死んでもいい。」
「!」
シンデモイイ。シンデモ。イイ。
彼女の言葉はナイフとなって私の心臓を突いた。ナイフは深く深く私を貫き、いっそ気を失いたいとさえ思う。富田さんは私の返事を待たずにカーディガンを翻し、自分の車に乗り込んで行った。私は茫然とその姿を見送る。志生が尋ねる。
「何言われたの?」
「なんでも・・ない。」
ナンデモナイ。ナンデモナイ。ナンデモナイ。シンデモイイ。シンデモイイ。シンデナイノニ。ナンデ、ナンデモナイ?
眩暈。眩暈がする・・。シンゾウカラシュッケツ?ナイフハドコ?
「萌。萌。」
ハッと我に返る。志生が心配そうに私の顔をのぞいている。富田さんの車はもういない。すごく時間が過ぎた気がする。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫。ちょっと眩暈がしただけ。」
「帰ろう。」
志生に促され、車までよたよたと歩く。助手席のドアを志生が開け、私を座らせてくれた。そして運転席に志生が座り、ゆっくりとエンジンをかけた。
窓を少し開けると風が入ってきた。頬に当たる風にはもう秋の冷たさがあった。本当なら今年の冬は今までで1番暖かい冬になるはずだった。志生と二人、寒い中を腕を組んで歩くのが密やかな夢だった。・・夢で終わってしまうんだろうか。まだ来ない冬を、既に終わった季節のように感じてしまうのは何故なんだろう。車の中はずっと沈黙が転がっていた。志生も私も一言も話をしようとしなかった。私は一瞬、志生が今夜は自宅へ帰ってしまうんじゃないかと思った。この車は私の車で志生は帰る手段はないはずだけど、その気になれば志生はそうするだろう。でも結果的にはそんな事にならなかった。志生は普通に私の車をうちの駐車場に止め、普通にエンジンを切り、車を降りた。その時に私に
「眩暈は?大丈夫?」
と訊いてくれた。私がうなずいたのを見ると、手をつないで歩きだした。手をつないだまま2階の部屋まで階段をあがった。どうして今、手をつないでくれるのだろう・・。何か意味があるんだろうか。何も言えないまま部屋に着き、灯りをつける。時計は10時を過ぎていた。あの喫茶店は夜10時までなのだなと、どうでもいい事を思う。
「疲れたな。」
「うん。」
「腹減ったあ。空弁、完全に冷めちゃったな。レンジ使ってもいいのかな。」
「包装にレンジ対応って書いてあれば大丈夫だと思うよ。」
「書いてある。」
私たちはレンジで志生が買ってきた空弁を温め、冷蔵庫からビールと缶チューハイを取り出した。テレビからの音声をBGMにして遅すぎる夕食を始めた。
「美味いだろ?」
「うん。美味しい。」
本当に美味しかった。気分的には食欲が落ちてもいいはずなのに、私の胃袋と脳は食べ物を欲しがっていた。胃袋はとうに空っぽで、喫茶店でのコーヒーなんかでは焼き石に水だった。そして脳は、あまりに短時間に色んな現実を叩きつけられたせいでストレスが溜まり、見事な低血糖に陥っていた。皆さんご存知ですか?脳はブドウ糖でしかエネルギーが消化できないんですよ。私は駅弁も大好きだ。空弁と言うのが空港で売られているのは知っていたが、食べるのは初めてだった。志生もずいぶんお腹が空いていたのだろう、大好きなアルコールよりもご飯が先になっていた。
「そうだ。サラダがあったんだ。」
料理が不得手な私だが、今夜はきっと志生が泊まりに来ると思って、昨夜のうちに簡単なサラダを作っておいた。
「あ、いいね。ちょっと足りないかと思ってたから丁度いい。」
私は冷蔵庫からサラダを出して、取り皿と一緒にテーブルに運んだ。空弁が空になって、のんびりとビールを飲み始めた頃、志生が話を切り出した。
「・・富田さんが来たこと、なんでこの前逢った時話さなかったの?知ってたらこんな事にならずに済んだ。」
どんな形でもあの女性は来たわよ。そう言いたかったけど、やっぱりどう考えても私に分が悪いので逆らうのをやめておいた。
「話した方がいいとは思ったんだけど・・、ネクタイとか選んでるうちに楽しくなってきて、あの雰囲気を壊すのが辛くなってきちゃったの。それに私が寝坊したから、逢った時間自体が遅かったでしょ・・、だからもう今夜はいいかなと思っちゃって。ごめんなさい。」
「そういう問題か?ちょっと話せば済むことじゃないか。夕飯食べながらだって出来るじゃないか。」
カチン。というよりブチッという音がした。
「あなたが私に嘘をついてた話をご飯食べながらできる訳ないでしょ!」
「嘘!?」
ああ、この舌を噛み切れればいいのに。そしたら言いたくない事を言わなくても済むのに。
「富田さんはあなたと付き合ってから離婚したそうね。」
「!」
「志生、彼女が離婚した後に付き合い始めたって言ってたけど、違うじゃない。不倫だったんじゃないの。」
・・ああヤダヤダヤダ!!どうして私がこんなことを志生に言わなければならないんだろう。自分の事を棚上げにして。他人の不倫の事をとやかく言える立場じゃない、絶対に。志生があの時ちゃんと話してくれればよかったのに。ああ、でもこれも志生の事言えない。志生に真実の事を言えずに婚約を白紙にしたいとまで言ったのは、誰でもない、この私だ。これ以上感情的になってはいけない。お願い、志生。この話をこれ以上掘り下げないで。私にこれ以上酷い言葉を言わせないで。
「・・・ゴメン。」
・・助かった。志生が思ってた以上にあっさりとその言葉を出した時、正直そう思った。謝ってくれれば許してあげられる。これ以上傷つけあうのを避けられる。でもそれと同時に胸の中にドロドロとした鉛が広がり始める。謝る事さえできない自分の過ちに。償えない過ちに。
そしてさらに別の鉛が生じてゆく。今まで気づかぬふりしてきたこと。・・志生は取り戻せるんだ。富田さんとよりを戻せば・・、私と別れさえすれば・・。
「彼を失うなら死んでもいい。」
富田さんのあの言葉が呪いの呪文のように鼓膜に甦る。本当に彼女が死んでしまったら・・。私のせいで死んでしまったら・・。志生を求めながら命を絶ってしまったら・・。
志生はまだ間に合う。まだ、今なら。