第64章―彼女の逆襲その4―
「どういう意味ですか?」
予期していなかった展開に混乱。ついていけない。
「穂村君に私とあなたと比べてもらいたいの。どちらが本当に穂村君を幸せにできるか。」
・・本気だ。この女性は本気で志生を欲しがっている。背筋が寒くなる。
「ちょっと待って。知沙さん、ダメだ。」
「どうして?」
もう富田さんは私の知っている淑やかな女性ではなかった。目的を達成するためなら手段は選ばない、そういう強い淑女の顔がそこにあった。
「どうしてなの?私たちは1度もちゃんと別れてないのよ。確かに私はあなたに一方的にさよならって言ったわ。そしてあなたからの返事は聞いてない。」
「返事しようにも連絡とれなかった。でも俺はもう追わなかったよ。それで成立じゃないか。」
「聞きたくなかったの。わかった、別れよう。君の事は忘れる。・・そんな言葉、穂村君から聞きたくなかったの。いつか・・、もしかしたらいつか・・って・・。」
「知沙さん・・。」
志生の顔が明らかに変わってゆく。涙にまみれて自分を愛していると訴える女に心が揺らいでいる男の顔。それは私の知っている志生の顔じゃなかった。
ここで私は本当に志生を失うかもという可能性を実感した。愚かな私は心のどこかで、絶対志生は私のもとから離れることはないと当たり前に思っていた。いや、当たり前すぎて富田さんに奪われることなんて思いつきもしなかった。志生を富田さんに渡すとするならば、“昔の男を自殺に追いやった罪深い女が愛する男を騙しきれず身を引いた”くらいの、それこそ昼ドラのストーリーを描いていた。馬鹿だ。馬鹿すぎてあまりにお粗末。富田さんを、富田さんと志生の過去を甘く見ていた報い。志生にこの顔をさせてしまったのは自分だ。私が他の事に気を取られて、志生に隠し事をして婚約も白紙にして、そのくせ志生は自分から離れないと天狗になっていた報い・・。潤哉の声が木霊する。
「後悔するぞ。」
「今の恋人を大事にすることだけ考えろ。」
・・・本当だね、潤哉。私は気がつくのがいつも遅いね。だけど。だけど!・・・間に合わない訳じゃない。
「ずるいですよ、富田さん。」
さあ、攻撃態勢。渡したくない。志生を、こんな風に渡したくない。二股?冗談じゃない。どこかの電話相談室じゃあるまいし、そんな茶番の暇つぶしに付き合っていられるほど私は暇じゃない!
「萌。」
志生が、まるで今私がここにいるのを思い出したかのような顔をして見る。私が話に割り込んだ事で我に返ったように。
「ずるい?・・そうね、ずるくないとは言えないでしょうね。」
「そうですよ。いつも私達を後ろからコソコソコソコソついて回って。今朝だって突然来て。そうかと思えば夜まで私の家の前で待ち伏せ。ずいぶんじゃないですか。それで今度は志生に二股をかけろって、無茶を言って。志生は物じゃないって私言いましたよね。」
「若いあなたと違って、私には自慢できるものがないの。知恵と経験以外は。・・私にはもう怖いものがない。穂村君以外に失うものもない。」
「私だって志生しかいません。」
「でもあなたが言ったのよ。すべては穂村君次第だって。穂村君の気持ちが1番重要だって。」
「!!」
「だから、穂村君が私の提案を受け入れてくれたら、暁星さん、承知してもらえるわよね。」
志生を見る。志生も私を見ている。ここまで言われても志生は黙ったまま。そして視線を富田さんに移し、下を向く。・・・どうしてなの?どうして二股なんてかけない、俺には萌しかいないと言ってくれないの?さっき部屋を出る時言った言葉は何だったの?
沈黙。三人とも沈黙。二人の女が一人の男の次の言葉を待っている。この緊迫。動悸が身体全体を覆う。そのくせ妙に頭の中は冷えている。私は怖いのだ・・。怖いものが何もないとはっきり言う富田知紗子が怖い。何故?この恐怖感はどこから来るの?どうしてなの?
いたたまれず、煙草を取り出す。志生もほとんど同時に煙草に手を出す。私の指は震えて、煙草1本を箱から出すのに時間がかかる。ライターをつけたいのに、指が震えるので上手くいかない。と、志生が私からライターを取る。そして火をつけてくれた。ゆっくり火へと煙草をくわえた口をもってゆく。やはり煙草は細かく震えていた。
「・・ありがと。」
そう言うが、私は志生の顔を見られない。見る勇気がない。隣に、すぐ隣にいるのに。二人の身体の間に敷居があるような気がする。固く閉ざされた心のような。遠い。隣のいる志生がこんなに遠いなんて。
「知沙さん、やはりできない。俺には、二股なんか。そんな事をしたって、誰もいい気分しない。」
志生の声に二人の女が顔を上げる。志生は富田さんを見ていた。横顔からもわかる。今この人は苦しんでる。眼の前の、かつて自分が愛した女性を自分の言葉で傷つけてる事に苦しんでる。
「もう、やり直すことはできない。萌をこれ以上俺たちの問題に巻き込みたくない。」
「!?」
二人の女がほぼ一緒に「!?」だった。全く意味の違う「!?」で。先に富田さんが口をきった。
「しない・・んじゃなくてできないのね?」
私の言いたいセリフもそれだった。でも富田さんの意味とは違う。私も声を出した。それこそ蚊の鳴くような声で。
「どうして・・?どうしてしないって言ってくれないの・・?どうしてできないなの・・?」
言った途端涙があふれ出す。志生はあわてて私に手を伸ばす。反射的に私はその手を払いのける。
「酷いよ、志生。」
本当はそのまま席を立ってしまいたかった。でも窓側にいた為に動けなかった。
「違う、そう言う意味じゃなくて。」
「じゃあどういう意味?」
今度は富田さんが志生に迫る。まさに昼ドラだ。
「どういう意味って・・。俺が萌を選んだってことだよ。」
「確かに今の時点では、私が暁星さんに敵うものはないかもしれない。でも、私と何度か会えばわかるわ。」
「何を?」
「あなたが本当に求めている愛情が。」
「萌だって俺を大切にしてくれるよ。」
「今はね。でも私の方がもっとあなたを幸せにできるわ。ううん、二人で幸せになれる。」
「どうして?」
私は富田さんに詰め寄った。
「どうしてそんな何も根拠のない事言えるんですか?どうしてあなたより私が劣るって・・。」
「穂村君のことしか考えてないからよ。」
「私だって・・。」
「違うわ。あなた、何か別の事に囚われてるわ。」
「!!」
「本当に穂村君だけを中心に考えてたら、私があなたの家に行った時点で穂村君に私の事を話してたはずよ。それに私にももっと違う言葉を言うはずよ。結婚が決まってるのだからこれ以上邪魔をするなとか。なのにあなたは冷静に“正式な婚約はまだです”なんて悠長なこと言ってたわね。“すべては志生次第です”。そんなキレイ事を言えるあなたが羨ましかった。最初は若さからの自信かと思った。それか穂村君との絆の強さかなって。だけど私が穂村君に連絡を取った時、穂村君は私とあなたが会った事さえ知らなかった。その時思ったの。あ、何かがおかしいって。」
「それは・・。」
言い返したい。でも納得させられるだけの言葉が見つからない。志生にさえ、今夜まで説明を伸ばしてきたのだ。富田さんの発言は、私と、そして志生までを動揺させるのにとても有効だった。実際、志生はずっと黙っている。彼女がはっきりと“二人で幸せになれる“と言った後から一言もない。女二人の間に立って、ただ黙って固唾をのんでいる。
「どう考えてもおかしいわ。だから思ったの。暁星さんには穂村君ってどれくらいの存在なのかしらと。もしかして、他にも気になる男性がいらっしゃるんじゃないかって。そうでないとしても、穂村君と結婚する気があるのかどうかって。」
・・・眩暈がしそうだ。恐るべし、富田知紗子。