第60章―呑まれてゆく蟻その13―
富田さんの事は思ったより早く・・私が志生の帰りを待つよりずっと早く志生に伝わった。
「どういう事?」
火曜日の夜。何度も志生からの着信があったので、まさかもしやと思っていたが、本当にそうだった。留守電に“とにかく電話が欲しい。”と入ってた。
「逢った時にちゃんと話すつもりだったのよ。」
「でも日曜の夜に逢ったじゃないか。」
「なんとなく言いそびれちゃったのよ。」
「なんとなく?萌にとってはその程度のものだったのか?」
・・・不味いなあ。分が悪すぎるよ。
「どうやって富田さん、志生と連絡つけたの?携帯教えてたの?」
「・・会社に問い合わせたんだって。親戚で急用だと言ったらしい。会社の事務の子から電話が来て、この番号にかけてくれって言うから電話したら富田さんが出た。」
頭いい。すごい行動力。
「すごいね。」
「それで俺の携帯が富田さんにわかってしまった。でもそれより、富田さんが萌と話がついてるって言うから、俺その方が・・」
「待って、待って。話がついてるって、そんなこと言ってないわ。私だってびっくりしたのよ。夜勤明けで家着いたらいきなり待ってるんだもの。」
「それが日曜日?」
「うん。それで、どうしても志生とやり直したいって言うから、」
「承知したのか。」
「承知なんてしてないわ。そんなこと私が言えることじゃないって言った。すべて志生次第だって。」
「俺の気持ちは萌が1番わかっているはずだ。」
「そうかもしれないけど・・。でも私にはそんなこと言えないわ。」
「今俺に言えない事があるからか。」
「そうじゃないけど・・。ごめんなさい、正直言うと富田さんが余りに一生懸命だから、これはちゃんと話した方がいいかなって思ったの。」
「もう話は終わってる。」
「あなたにとってはそうかもしれない。でも彼女納得してない。これじゃ私たち、前に行けない。」
「・・・。」
本当に前に行けるのか。誰よりも私が。
「あなたに黙っていたのは悪かったわ。本当にごめんなさい。」
「金曜日の夜会いたいって言われた。」
「!」
「俺が1番腹が立ったのは、俺がいない所で話が進められたことだ。俺は富田さんに会う理由がないんだ。」
「ごめん。ごめんなさい。」
「萌、俺と別れる気はないって言ったな?」
「・・うん。」
多分、と心の中で呟く。
「なら、2度とこんな事するな。絶対。」
「・・・はい。」
「金曜は萌と逢う。その時ちゃんと話そう。」
「富田さんは?どうするの?」
「断ったよ。かなり頑張られたけど。」
「・・・。」
「またメールもするし、電話入れる。」
「わかった。」
「じゃ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
志生を甘く見ていた。あんなにはっきりと富田さんの話を断るとは。・・富田さんはわかっていたのだ。志生が甘くない事を。だから私の所まで来たんだ。ちょっと考えればわかる事じゃないか。・・やっぱり早く話せばよかったかな。だけど、結局今でも前でも同じかな。私が気持ちを定めなければ。カレンダーを見る。火曜日。あと3日で金曜日。それまでに決められるのだろうか。あの人への気持ちを整理して志生と生きてゆくと。本当に?ああ、最近こればかり言ってる。本当に?
志生と出逢って、いや、志生のあの寝顔を見た瞬間に、恋は始まった。何も、何も考えず、何も迷わずに志生を想い始めて、志生にも想ってもらえて・・。恋が愛になって過ごした時間は今でも短いくらいだけど、ちゃんと絆がある。人を想うのに時間は関係ないと思ったばかりだ。富田さんとの事があったけど、少なくとも志生は1度も立ち止まらずに私との付き合いを考えてくれてた。私は?私はどうなんだろう?本当に志生と向き合ってきたのだろうか。向き合っているつもりだっただけではないか?・・愛してる。それだけは真実なのに。このままじゃ、それだけが真実になってしまう・・。
富田さんはこのまま引き下がるのだろうか。そうは思えない。あの女性の覚悟はこんなものじゃない。志生に拒否されることも予想していたはずだ。簡単に会えなくても携帯番号を知ってるだけで対応の幅が広がる。私のカンでは、今回は志生の携帯だけわかればいいというくらいだったんじゃないかな。“彼女はまだ自分のことを必要としている。”・・・それを志生に知らせる為。志生は私にはっきりと富田さんに会う理由がないと言ったけれど、内心は色々思っているに違いない。誰だって、1度心から愛した人からの言葉は、例え別れて何年経っていようと心を揺さぶられるものだ。当たり前だ。
ぼんやりとした頭でそんな事を思っていた。一つの事を思っていると、そこから次の事が出て来て、またそこから他の事が出てくる。最初は1本の線だったのに、いつのまにかもう1本足され、また1本と増えてゆき、気がついたら無数の線が絡み合っている。そんな感じ。そしてやっぱり出口が見つからない。
こんな風に言ってると、私がなんだかのんびり屋に見えるかもしれない。でも本当はすごく焦っている。志生を長く誤魔化せるとは思えない。あんなに大ゲンカになった原因の富田さんと私が話をしたという事で、志生は私に何かあったとわかったのだ。穂村志生という男は、私が今まで出会ってきた男性達と明らかに違う。
私の中に二人の私がいた。・・・話してしまってもいいのかな。全てのことを。本当のことを。志生は、穂村志生は、私が思っているよりずっとずっと、大きくて広い男なのかもしれない。富田さんの事は置いといて、あの人と私の事は言ってしまった方がいいのかもしれない。どうせ話すなら、嘘はつきたくない。嘘をつくくらいなら一切話をしない方がいい。それで志生が私を信じられずに離れていったとしても、それは仕方ない。・・・一人の私はそう言っている。でももう一方で・・・全部話してしまって本当に志生を失ってもいいの?こんなに愛してるのに。都合よく考えて、志生がわかってくれるんじゃないかと思ってるけど、今夜だって志生があんなにはっきり富田さんの話をするとは思わなかったじゃない。わかってるつもりで、本当はまだまだ志生の事が未知数なんじゃない?第一そんな話、志生が聞いたからってどうなるっていうの。嘘をつくくらいならなんて綺麗事を言ってるけど、ただ自分の重荷を肩代わりさせるだけなんじゃないの?あんたのせいで死んでるんだから、あんたが最期まで引きずっていきなさいよ。・・・こう言っていた。
それが3日続いた。そして金曜日が来た。朝、何気なくカレンダーを見たら金曜日の上に13日だった。マジかい、と思い思わず苦笑いした。私にも急に殺人鬼が現れて、斧でも何でも振りかざしてくれたらいいのに。そうすれば私はこの悩みから解放され、志生はあきらめがつく。丸く収まる。誰も損をしない。
朝食を摂っていた時ドアホンが鳴った。こんな時間にドアホンが鳴るなんてないので、私は最初テレビの音かと思った。ピンポンピンポン・・さらに鳴った時、私は錯覚じゃないと気づいた。一瞬嫌な予感が胸をよぎった。ピンポンピンポン・・さらに鳴る。私はあきらめて玄関の方に行き、ドアホンの主に声をかけた。
「どちら様ですか?」
一瞬間があって相手は返事をした。
「富田です。」と。