第59章―呑まれてゆく蟻その12―
「疲れた・・。」
家に着いて、まず出たのがそれだった。結局何も買わずに、あの珍しい食材を売っているスーパーマーケットから帰ってきてしまった。そして、例によっていつものようにベッドに身を投げる。ベッドに身を投げるたびに思う。Gパン好きで良かったと。これがスカートだったらこんな風に寝られない。
今日のことを振り返る。あの人の奥さんの小さな輪郭が浮かぶ。・・あの人の死を知ってからずっと思っていた。4年という月日を。二人の4年間を。だけど、奥さんとあの人が過ごした時間に比べたら本当に短くて、中身も大きな差があった。もちろん、人間の気持ちは時間の長さだけではない。長さだけで情が量れるなら、あの人は自殺しなかった。私のことを割り切り、奥さんと共に歩こうとしたはずだ。
だからこそ悔やまれる。奥さんもあの人を救えなかったことをとても悔いている。おそらく私以上に。
「随分長く一緒にいたのに、最期まで私に甘えることを思い出してもらえなかった。」
奥さんの言葉が心を刺す。そして甘えたくても甘えられなかったあの人の気持ちが追い打ちをかける。彼は私に奥さんとの間にあった堕胎の事実や、そのために奥さんが妊娠できない事を言わなかった(嘘をついていた)けど、今思えば言わなかったのではなく言えなかったのだ。それはもちろん彼の虚栄心を守る為でもあっただろうが、私がそれをネタに奥さんとの離婚を強要しかねないと思ったからではないか。奥さんに対して責任感だけで一緒にいたとしても情はあっただろうし、離婚だけは生涯しないとおそらく決めていたのだ。でも私が妊娠したら、迷わず“結婚したい。子供を産ませて。”と言ったはずだ。実際私は望んでいた。避妊しながらも、どこかで失敗して子供が出来たら(失敗して妊娠するという言い方が自分で使っててもとても嫌です。どうか世界中の恋人達がそういう考え方をしないように祈ります:作者)奥さんと同じ土俵に立てると何度も思った。彼はそれに気づいていた。でも産ませることは絶対に出来ない。だから私の月経周期にもとても気を使っていた。私が傷つくくらいに。今考えれば当たり前だ。そして、それは2度と自分の子を堕胎させたくないという彼の願いでもあったのではないか。自分の血を宿す人間を望まない事で、奥さんとの情を保ち、引いては私の事も守ろうとしていたのではないか。
でもそれならば私がいづれ去ってしまう事も想定だったはずなのに。結婚できない男にいつまでもついていけるほど私は強くない。世の中にはそういう女性もいるだろうが私には無理だ。それも彼は誰より知っていた。いつだったか彼の学会にこっそりついて行って1泊した時、彼は言った。
「いつか萌は俺のもとから離れて行くんだろうな。俺は止められない。それは仕方ないと思うよ。俺が君の望みを叶えられないからだ。」
だけど私はその頃、それこそあの人が世界の中心だったから
「何も要らないわ。そばにいられるだけでいいの。離れるなんてないわ。」
なんて、甘ちゃんな返事をしたと思う。バカな女だ。そんなのは続かない。実際すぐに折れたのだから。でも、あの人が私のその言葉を鵜呑みにするとも思えなかったのだが。
様々な思いが浮かび、沢山の言い訳が巡る。何処へも行けない心。やり場のない悲しみ。でも一つだけわかったことがある。それはある意味とても残念なことだが。・・・私は守られていた。あの人は私を最期の最期まで守ってくれたのだ。私との付き合いをほのめかすものも何一つ残さず、私に自分の血をひく命を宿すこともしなかった。私が今日、彼の奥さんに会った事で唯一本当にわかったことはそれだった。それは私をとてもやりきれない気持ちにさせる。私はあの人を最後まで責めて責めて別れたのだ。沢山もらった愛情よりも、してもらえなかったという恨み辛みの方が強くてどうにもならなかった。どうしてしてもらった事は忘れてしまうんだろう?どうして人間はプラスの事よりマイナスの事ばかり数えるのだろう?どうして心は自由にならないのだ?
私はしばらくベッドでぼんやりしながら天井を眺めていた。その視野に窓辺に置いてあるサボコがいた。サボコは何も語らなかった。私もサボコに何も言えなかった。声に出すのが怖かった。何をどう考えても、出口は見つからない。あの人を死を受け入れたにすぎない。それもあの人を奥さんに導かれて。それさえあの人が仕組んだ事なら、こんなに悲しい事はない。でもひとりでは、多分ひたすら堂々巡りしかできなかっただろう。もう涙も出なかった。泣く事さえ忘れてしまいそうだ。泣くなんて奥さんに申し訳ない気がした。
ふと私は思い立つ。志生に今朝のメールの返事をしていない。もう夕方だった。なんだか志生が遠い人に感じる。・・・死んだ人の世界に慣れ始めている。でもそれと志生は関係ない。あの人は死に、志生は生きているのだ。志生は確かに生きていて、私を必要としてくれているのだ。そして私も志生を必要としている。救われることはなくても、逃げることはできない。私は携帯を取り、志生に送るメールを打った。
「お疲れ様です。ネクタイ、気に入ってもらえたならよかった。今週末は金曜日勤、土曜休み、日曜夜勤です。逢えるのが楽しみです。無事に帰ってきてください。」
逢えるのが楽しみ?本当に?・・・富田さんの話をどうしようか迷う。いづれは志生にわかってしまうだろう。この前言ってしまえばよかったかもしれない。でも富田さんが志生に会うには志生の会社の前で待つしかないのだから(これもいづれバレるだろうが。今までの行動から仮定して志生の携帯を知っているとも思えない。)、次に志生に逢った時に話しても遅くないんじゃないか?
だけど。志生はおそらく私に不信感を持つだろう。自分を愛しているのなら、どうして富田さんの話を受け入れたのかと。私にしてみれば、志生を富田さんに渡してもいいと言ったわけじゃなくて、富田さんが志生と話したいという気持ちは承知しただけなのだが、志生は納得してくれるだろうか。・・私はただ、このまま志生と結婚したとしても釈然としないような気がしたから、富田さんが納得するまで話した方が後々いいだろうと思った。それは富田さんがなんと言おうと私たちの気持ちがしっかりしていればいいんだ。・・・?私たちの気持ち?私たちの気持ちって何?私はこの前まで志生との結婚をためらい、志生にも白紙にしてほしいと頼んだんじゃないか。あんなに傷つけて。それに昨日富田さんに会って、ますます自信がなくなったんじゃなかったか?心のどこかで志生は富田さんとやり直した方がいいとまで思ってなかったか?・・・わからない。私の真意は何処にあるの?志生が欲しいの?本当に?ならどうして富田さんにはっきり言わなかった?富田さんが子供を望めない身体の上に離婚までしているから?同情して?それこそ相手に失礼だ。でも同じ女としてという気持ちが、志生への愛情に邪魔をする。もう、自分だけの心で誰も傷つけたくない。怖い・・。
ここでも私はさっきと同じ問答を繰り返す。どうして心は自由にならないんだ?本当に大切な、本当に守るべきものは何なんだ?本当に欲しいのは何なんだ?・・・死んだ人の世界に慣れ始めている。自分で自覚のないまま、すでに蟻地獄に堕ちてしまっているんじゃないか?私の心は何処に行ってしまったんだ? ??????????・・・・・・・・・・・・・・。わからない。出口がない。当たり前だ。蟻地獄に入口はあっても、出口があるなんて聞いたことがない。