第58章―呑まれてゆく蟻その11―
「・・主人は多分、旅行の話をしていた時から死ぬ気でいたんだと思う。だから全てスッキリして、最後に私にサービスするつもりで笑っていたんだわ。でも私と旅行に行く気にはならなかったのよね。」
「・・体調以外には、本当に原因がないんですか?もしかして大きな病気があったとか・・。」
図々しい女。私は本当は何を知りたいんだろう?何をわかりたいんだろうか。自分たちの不倫が露呈しないことを?あの人の真実の最期?
「訊いてみたけど、特別大きなものはなかった。多少疲れもたまってて、年齢相当のダメージはあったけど、それくらい。・・精神的なものなんだろうけど、本当に私には思いつくことがないの。逆に私が教えてもらいたいくらいよ。警察にも、親せきにも、色んな人に色んなことを言われたわ。夫が何を悩んでいたのか、妻のくせに全く見当がつかないのかって。だって本当にわからないんだもの。それで私、彼の勤めてる病院に調査を依頼したの。もしかして医療ミスがあったんじゃないかとか、看護婦と女性関係がなかったかとか。」
一瞬ドキッとする。この話がこの前医局のドクターたちが言ってたことか!?でも、既に私の精神も身体もそれまで抱いていた恐怖から解放されていて、むしろただの好奇心になっている。この女性があの人に対してどう思い、どう行動したのかを知りたい。もう私たちの事が発覚くる事はない。
「・・それで、どうだったんですか?」
「何も。何も情報は出てこなかった。もしかしたら個人的に知ってる人はいるのかもしれないけど、病院が調べた限りでは出なかったわ。今朝はそのお礼に行ったの。」
「・・・。」
「主人が何を考えて自殺に至ってしまったのか、それはもうわからない。どうにもならない。何がそんなに辛かったのか・・。でも、それよりも悲しいのは、随分長く一緒にいたのに、主人が最期まで私に甘えることを思い出してくれなかったことなの。私の存在は、あの人にとってそんなに軽いものだったのかって・・。それを思うと・・。」
彼女が小さく震えて、その言葉と同時にその眼から涙がこぼれた。その涙を見た時私は、先程まで忘れていた、この女性が“彼女”じゃなくて“あの人の奥さん”だったことを思い出した。そして私が蒔いた種のせいで苦しんでいるのを。私がこの女性の大切な尊い人を奪ってしまったことを。この女性が知らない事実を、私は数多く知っている。どう考えても不平等なほどに。でもそれは言えない。
「ごめんなさいね。今日初めて会ったのに、こんな話を聞いてもらって・・。とても助かったわ。少し楽になった。ずっと苦しくて、ただ誰かに聞いてほしくて・・。こういう話って知ってる人とではダメなのよね。必ず答えを求めてしまって。死んでる人から答えなんて出る訳ないのに。」
「・・お役に立てたのなら。」
“死んでる人から答えは出ない。”・・そう。本当にそう。その点ではこの女性と私の苦しみは似ている。でも絶対お互い合い交わることのない苦しみだ。そして、この女性には何一つ非がない。非がないのだ。だからこそあの人も何も言えずに逝ってしまったのだろう。
「お役に立ったわよ。何故だかわからないけど、さっき再会した時に忽然とあなたがいいって思って。話を聞いてもらえるんじゃないかって思って。知らない人だったから良かったのかもしれない。・・本当にありがとう。」
彼女はそう言って頭を下げた。確かに今朝バス停で見た時より顔色に覇気が出た感じに見えた。頭を下げたいのはこっちの方だ。“知らない人じゃない。私と貴女はもしかしたら他の誰よりも、同じ人を失った悲しみを分かり合えるかもしれないんです。”・・一瞬全てを話してしまおうかと思う。喉元どころか口元まで言いようのない気持ちがこみ上げる。もちろん私は怖かった。ものすごく怖かった。でもそれよりも、今この女性に全てを話すことが本当に良い事か。その事が私を留めさせた。この女性は何も知らないのだ。夫の裏切りを。女の存在を。今も十分苦しんでいる。わからない、知らないままの方が良い事もあるんじゃないだろうか。それとも知ることで、私を怨むことで救われるんだろうか。いや、結局救われることはないだろう。救われるなんて、私は思ってはいけない。
「さよなら。本当にありがとう。」
そう言って彼女・・、あの人の奥さんは誰も待つことのない家に帰っていった。食事代を持つと言って譲らなかった。あんまり固辞するのもおかしな事になりかねない気がして、結局私は彼女にご馳走になってしまう形になった。
「・・あの、良かったら、ご自宅までお送りしましょうか。」
気がつくとそんな事を図々しい口は言っていた。でも彼女は丁重に断った。
「歩いて行くわ。近くだし。雨もあがったし。送ってもらったりしたら、家にまで上げてしまってあなたをさらに振り回してしまいそう。・・きっとあなたには他人を居心地良くさせる何かを持っているのね。これ以上いると、あなたとお友達になりたくなってしまうかも。でもそれを私は望んでいないの。そうなってしまったら、あなたは私を囲んでいる様々な人達と同じになってしまう。それが嫌。だから名前も訊かないわ。ごめんなさいね、本当に我儘に付き合ってもらって。」
彼女の言わんとする事がなんとなくわかるような気がした。私もこの女性を、とても好意的に思った。こんな形でなかったらと思ってしまうくらい。だけどこの女性の言う通りここで別れた方がいいのだ。ましてあの人の自宅なんて知らない方が。知ってしまったら、きっと今度はこの女性の事が気になって、それこそストーカーのようにこっそり見に行来かねない。
「さようなら。」
「さようなら。」
私は午後の澄み渡った空の下をゆっくり歩いてゆく彼女の後ろ姿を見送った。小さな身体は、やっぱり小さく見えた。