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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第57章―呑まれてゆく蟻その10―

 彼女はほんのしばらく黙っていたけど、やがて(せき)を切ったように話し出した。

 「・・主人とは大学時代に知り合ったの。私、彼の大学の近くの喫茶店でバイトしててね。自分も女子大生だった。よく店に来てくれて、自然と話すようになって・・、半年後くらいに付き合うようになったかな。・・彼が大学5年(ご存知の方も多いと思いますが、医大はストレートでも6年かかります)の時だったと思う。失敗しちゃって、私は妊娠した。もちろん親にも言えないし、彼は卒業まであと1年の大事な時で・・。堕ろしたの。しかたなく。彼言ったわ。卒業して、医師になって落ち着いたら結婚しようって。でも私はそれじゃまるで堕胎の責任だけで結婚するみたいで嫌だったの。だけど別れる気にもなれなくて結局ずっと付き合って・・、彼が医師になって5年くらい経った頃結婚の話が上がった。もう付き合って8年近くになってたから、まあ、当たり前よね。うん、もうそれからは妊娠はしなかったわ。でもしなかったんじゃなかったんだけどね。それは置いといて・・。私は心のどこかで引っ掛かっていたの。この人は私への責任感だけで今まで一緒にいてくれたんじゃないかって。愛情よりも責任感の方が勝ってるんじゃないかって。結婚の話が出た時、初めて私は自分の思いを伝えたわ。そしたら彼怒って。そんなつもりはないって。あの時にもっと自分が大人だったら産ませてあげられたのは事実だけど、それと私との付き合いは違うって・・。嬉しかったわ。その気持ちに応えて、医師の妻として精一杯サポートしていこうって思った。今度は子供も迷わず産めるしって。」

「・・・。」

そこで彼女はコーヒーを飲んだ。彼女の話の中には、私が知っている話もあれば知らない話もあった。奥さんが堕胎していたなんて知らなかったし、虚弱体質だと聞いていたのに、どうもそういう様子の話はないようだし。ある程度長い付き合いで結婚したとは聞いていた。あの人は

「正直結婚する時、責任感と愛情を天秤に掛けたらどっちが重たいか、よくわからなかった。ただ、彼女と長い付き合いだったのは本当だし、他に特別心が動く女もいなかった。だから結婚するのは普通の成り行きだった。」

と言っていた。奥さんのカンは正しかった。でも結局結婚したかったんじゃないかとしか私には思えない。女は不安なカンの方が大抵当たるのに、不安を打ち消すためにわざと相手に言葉(けんか)をけしかける。そしておおよその男はその言葉で自分の器を試させられてると思い、結果本心ではない言葉を返し女を安心させることで女を手放すかもという危機を脱する。もちろん別れたい女にはこの限りじゃないだろうが。ただ、人間だけじゃなく動物全体として、女より男の方がカッコつけたがりだし、自分の立場を守る傾向が強い。だから社会的地位に確執するのも男が多いし、手切れ金を女から男に渡したなんてほとんど聞いたことがない。社会的地位は何より男を守る鎧だし、女から手切れ金をもらうなんてカッコ悪い話は自分の名誉を傷つけるだけだからだ。なんだか話が逸れてしまったけど、私の言いたいことは、つまり“男は心は女にくれない”ということ。女がどんなに相手に本心を求めても、滅多には本心は語らないのだ。それは男が嘘つきということではない。男とはもともとそういう傾向が強い動物なのだ。(ここを読んだあなたが独身女性ならそれを心得て男性と接すると、甘い言葉にいたずらに溺れないし、むしろ男との会話にゆとりが出てくることが増えると思います。そしてあなたの機嫌を取るためにいかに頑張ってるかという姿に愛しさも湧くはずです。そんな風に男性との付き合いを色んな角度で見られるような女性になって下さい:作者)


 私が自分の話に特別返事を入れなかったので、また彼女は語り始めた。もう私にはコーヒーもティラミスもなくなっていたが、彼女は再注文しなかった。さすがだなとおもった。でもこんなに見事な女性でも、あの人の言葉の裏は読めなかったのだ・・。だけどここでの結論は正しい。コーヒー3杯はもう香りを楽しめないし、話を間延びさせるだけだ。そろそろ話もクライマックスに近いようだ。

「結婚が決まった頃、私はたまたま友達が婦人科に検診に行くというのでついて行って、自分も検診を受けたの。その結果を聞きに行った時・・。お医者さんて、患者さんを助ける尊い仕事だと思っていたけど、同時に残酷なことも言うんだと思ったわ。そう、私の子宮は妊娠が限りなく望めない状態だったの。1度妊娠したのになんでって思うでしょ?それが、その堕胎自体で子宮に大きなダメージを負ったらしくて。行った病院ところが悪かったのか、やった医者ひとが悪かったのか・・。どのみち昔の話になってしまうし調べようがない。カルテ?無理よ、カルテの保存義務は5年間だし、うん。そうなのよ、5年しかないの。だいいち堕胎の手術は健康保険使わないでしょ?そうなるともう・・。私、本当に真っ暗になったわ。そして誰でもない、自分を恨んだわ。だけど結婚するのに彼に黙っている訳にもいかない。話したわよ。ものすごく怖かったけど。これで結婚取りやめでも仕方ないと思った。でも彼はそんな事は二人の結婚には関係ないって言ってくれたわ。子供が欲しくて結婚するんじゃないって。もしかしたら堕胎のそもそもの原因が自分だから、それこそ責任を取ろうと思ったかもしれない。でも、それならそれでもいいと思った。その優しさに甘えて、その代わり子供がいなくても結婚してよかったと心から思ってもらえる家庭を造ろうと思ったわ。結婚して9年、毎日それだけを考えて暮らしてきた。居心地の良い家庭だけを考えて。主人も不満はないようだった。楽しく過ごしてきたのよ。そりゃ重症患者さんがいる時には病院に泊まり込みの日もあって、私は一人で淋しかったけど、そんな時はお弁当作って届けたりね。どうしたら彼の役に立って、彼が“子供が産めなくてもお前と結婚してよかった”と思うかと、本当にそればかり・・。医師って因果な商売で、お金はそこそこたまるけど、旅行なんかはあんまり行けないのよね。時間とるの大変で。中には仲間同士で上手くやる先生もいるけど、主人は滅多にそういう事もなかった。でも私は彼といられるだけで満たされていたし、本当に上手くいってたのよ。それがこの夏に入ったあたりから急に塞ぎこむようになって、あんなに仕事熱心な人が病院を休むようになった。自分の外来の日は何とか行ってたけど、それも間もなく出来ないと言いだした。・・私は何か仕事でミスをしたんじゃないかと思ったの。医療ミスなんてあってはならないことだけど、医師だって人間なんだもの、絶対なんて言えないでしょ?私も最初は“暫くゆっくりしたら?”なんて悠長なこと言ってたんだけどどうも様子がおかしかったから、ある時思いきって訊いてみたの。何かあったんでしょ?って。患者さんの事?って。でも何度聞いても主人は“何でもない、体調が悪いだけだ”としか言わなくて・・。検査してみたら?と言ってもそうだねとしか言わない。そのうちどうやって処方してもらったのか睡眠導入剤を飲むようになった。これはもう完全に精神的な事が原因だと思ったわ。それで私は主人に言ったの。1度すべて忘れて遠い所に旅行に行こうって。結婚して以来、遠出は滅多になかったから私も行きたいって。そしたら“そうだね。それもいいね”って笑ったから、私少し安心したの。だって会話もぐっと減って、どうしたらいいかわからなかったから・・。何日か色んなパンフレットを見ながら計画を練る話をしたわ。いっそ一旦仕事を辞めてもいいんじゃないかって、お金は多少だけど余裕あったし、どこか外国でも行って暫くのんびりしてもいいよねって・・。主人も楽しそうにしてた。少なくとも自殺を考えてるようには見えなかったわ。なのに・・ある日私が買い物に行っている間にいなくなったの。車がなかったからあれ?って思ったんだけど、もしかしたら病院(つとめさき)に顔を出しに行ったかなと思った。その前の晩に近いうちに病院行って薬をもらいながら長期の休職願を出すって言ってたから。そしたら逆に病院から連絡が来て・・屋上に出るための階段の踊り場で主人が倒れてるって。ズボンのポケットから大量の薬が見つかったって。あの人、飲んでるようでため込んでいたらしくて。・・私、それにさえ気がつかなかったの。それにも気付かないくらいだから、主人が自殺するほど思いつめていたのもわからなかった。」

 私は彼女の話が余りにリアルだったので、だんだんあの人の話に聞こえなくなっていた。私の知っている彼の話ではなくて、あくまでも“この女性(ひと)のご主人”の話だった。あんなにとり乱していた心臓も、もう速く脈打つことはなかった。その分、あの人は私に嘘をついてたんだなという思いがあった。離婚しないのを条件に結婚したと言ってたけど、そんな事なかったんだ。奥さんが病弱というのも嘘だったんだ・・。結局奥さんと私と選べなかっただけなんだ。そして・・。奥さんに私たちの事は露ほどもバレていない。この女性(ひと)は最後まであの人を疑う事はなかったし、あの人もヘマをすることはなかったんだ。

 私は正直安堵した。そしてそんな自分に吐き気がした。


























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