第56章―呑まれてゆく蟻その9―
火をつけた指の動きから、最近煙草を吸いだした人のように見えた。でもそれは私の思い込みかもしれない。あの人が奥さんの身体をいたわっていたのを知っているから。その優しさに随分苦しめられたから。私も煙草に火をつけ、深く煙を吸った。そしてゆっくり吐いた。彼女も同じ感じだった。
「・・お子さんは?いないんですか?」
他にこの話から思いつく言葉がなかったのでそう訊いた。”どうしてご主人は亡くなったんですか?”と訊く勇気などない。
「いないわ。」
「・・・。」
私は、いかにも“悪いことを訊きました。”とでも言うように身を縮ませた。そして料理に手を出した。彼女も煙草を消してフォークを取った。
日替わりランチはアスパラと生ハムのペペロンチーノ、小さなフランスパン、レタスを主体にしたサラダ、コンソメスープ、コーヒーだった。どれもスーパーマーケットで食べるにはびっくりするくらい良い出来だった。とりわけ私が気に行ったのはパンにつけるバターだった。マーガリンじゃないだけで評価に値すると思ったが、塩加減がパンととてもバランスよく調和された美味しいバターだった。さすが、珍しい食材をそろえるお店だけあるかもしれない。
「美味しいわ。こんなに良い料理を出すとは思ってなかった。」
彼女も絶賛していた。私も
「本当。今まで知らなかったなんて損した感じ。」
と同意した。私たちはひとしきり食べることに集中した。半分くらい食べた所で彼女がまた話しだした。
「どうして今朝バスに乗らなかったの?」
「え?」
バス停のことなど忘れつつ食べていたので、突然フックを食らったような感じになった。
「だって時刻表見ただけにしてはベンチにまで座ったじゃない。それなのにバスが来たらあなたが乗らなくて、ベンチに座ったままで。びっくりしたわ。」
ベンチに座ったのはあなたを見たかったからです。とも言えず。
「あれは・・。本当に時刻表をちょっと見るつもりで。でもそちらが座る位置をずらして勧めてくれたので・・何となく座りたくなっちゃったんです。」
・・めちゃくちゃな理由だ。嘘だから仕方ないが余りに嘘くさい。一瞬彼女も言葉を失って私の顔を覗き込んだ。
「本当?私が座るのを勧めたから座ったって言うの?」
「そうです。」
やけくその極致。お願い、どうかもうこの話題は終わって!
「・・あなた、そんなに暇な人?とてもそういう風に見えないけど。」
彼女はまだ納得できないようだった(そりゃそうだ)。
「今日は暇でした。」
私は仕方なくそう答えた。他に言いようがない。上手い言い訳も思いつかない。ボロを出すわけには絶対いかない。まだ彼女は憮然とした顔をしていた。だんだんこっちの脈拍が速くなってきた。顔が強張ってゆくのがわかる。全身に鳥肌が立ってるんじゃないか。さっきまでの、まだ目の前にある料理の味も遠くなってゆく。・・そのまま黙って彼女の小さい顔を見た。
「フフッ、面白い人ね、あなた。」
彼女が笑いだしたのでほっとした。私は今度は気付かれないように安堵のため息をついた。私もつられて笑った。
料理をほぼ終えるころ、彼女が
「ねえ、急ぐ?デザートも食べない?」
と誘った。もちろん私に異存はなかった。彼女は店員を呼ぶとティラミスを二つ注文し、また私に眼で“ティラミスでいい?”と合図した。私はまたコクリとうなずいた。そしてコーヒーのおかわりも頼んでくれた。私はもう1杯コーヒーを飲みたいと思っていたので、この彼女の絶妙なタイミングに驚いた。まだカップにも少し残っているのに。気が利く女性なのだなと思う。どうしてこんな素敵な奥さんがいたのに私なんかと付き合っていたのだろうと、改めてあの人の心情を疑う。どうしてこの女性を残して逝ってしまわなければならなかったのかと。
「夫が死んだのはね。」
またもや唐突に話が始まった。私は黙って続きを待ったが、また誤解されるといけないので目線は彼女の顔を見た。
「・・自殺なの。」
「自殺?」
我ながら白々しいと思うが、もう此処まで来たのだ。あとには引き下がれない。最後までしらを切り、あくまでも初めて聞いたフリ(そして今から語られることのすべてと無関係であるフリ)を通すのだ。
「そう。まだ日も浅いわ。夏の初めに体調が悪いと言い出して、結婚以来こんなに一緒に過ごしたこと無いってくらい毎日顔を合わせていて、そしたら今度は急に自殺。」
「・・・。」
「何で死んだと思う?」
「・・・さあ。」
「薬よ。」
「薬?」
「睡眠薬を多量に飲んだの。」
「でも、最近の睡眠薬って、かなり大量に飲んでも簡単に死亡できないんじゃないんですか?」
「?・・よく知ってるわね。」
しまった。と思っても遅い。余分なこと言ってしまった。一気に鼓動が速まる。
「あの・・、友達が看護婦で。そんな話を聞いた気が・・。」
これっぽちの話をしただけじゃわかるはずない。落ち着いて。心臓静まれ!
「ああ、そう。でも主人は医師だったの。」
動悸、静まって!お願い!
「お医者様・・。そうですか。」
そこで彼女はしばらく黙りこんでしまった。私は喉の奥から心臓が出てきそうな感覚を錯覚だと自分に言い聞かせながら、冷め始めたコーヒーと残り少ないティラミスを眺めていた。