第55章―呑まれてゆく蟻その8―
どうして私はこんなとこに座っているのだ?どうしてこんなことになってんだ?
・・珍しいものを沢山売っているスーパーマーケットの一角の喫茶室。どうしてスーパーマーケットに喫茶室があるかは訊かないでいただきたい。世の中は広く、そういうスーパーマーケットもあるのだ。話がずれたけど、とにかく今私はパニクっている。眼の前にあの人の奥さんがいて、向かい合って座っていて、二人の前にはお茶が置いてあって、これから一緒に昼食を食べるらしいのだ。らしいじゃない、食べるのだ。
「嬉しいわ。ずっと一人でご飯食べてたから。」
読んで下さっている皆さんの為にいきさつを説明しなければいけない。先程果物売り場で後ろから声をかけられたところから。
「どうして今朝、バスに乗らなかったの?」
「あ、えっと・・、あの・・。」
「バスに乗るつもりであそこにいたんじゃないの?」
「いや、あの、ちょっと見てただけで・・。」
「何を?」
「え、いや、時刻表・・。」
なんてバカなことを言ってるんだろ。というか、どうしてここにこの人がいるんだ?と思って”!・・そうか。ここ、あの人の自宅の近くなんだっけ。それも忘れてた。”
「?」
キョトンとした顔で奥さんは黙った。私もどうしたらいいのかわからず、かといって歩き出すことも出来ず黙ってつっ立っていた。そしたら奥さんが
「そうだ。あなた、お昼食べた?」
といきなり訊いたので
「え?お昼ですか?いや、まだ・・」
と答えた。その途端彼女はパッと笑顔になりこう言った。
「ここ(珍しい食材を売っているスーパーマーケット)のランチは美味しいらしいの。私食べたこと無いんだけど、あなたある?」
「いや、無いです。」
ここには買い物の目的でしか利用したこと無い。だいたいがあなたのご主人と食事をした後来ていたから。とは言えない。
「じゃあ、一緒にランチしましょう。それがいいわ。」
何がいいのかよくわからなかったが、そのまま彼女がどんどん歩き出してしまったので、私は半強制的に後ろからついて行かざるを得なくなった。
喫茶室は食品売り場の客の数と比べると多いように感じた。なるほど、ランチを目的にこのスーパーマーケットに来る人も少なからずいるようだ。喫茶室に入ると店員に
「禁煙席と喫煙席がありますが。」
と訊かれて、彼女は私の方を見た。眼が“あなた、吸う?”と言っている。どうしよう。この人は吸うのだろうか。あの人の話では虚弱体質と言ってたから吸わないんだろうな。返事に詰まっていると彼女は店員にこう言った。
「喫煙席で。」
そして私の方をまた見て”いい?”という顔をしたので、私はコクリとうなずいた。・・煙草、吸うの?
店員が案内したのは駐車場が見える窓側の席だった。ランチは日替わりと定番とがあった。彼女が日替わりを注文したので、私もそれに従った。・・・そして今に至っている。
「嬉しいわ。ずっと一人でご飯食べてたから。」
・・・どうしてこうなったかはよくわからないけど、ここまで来たらもうやけくそだわ。
「・・ひとり暮らしなんですか?」
喉の下から胸にかけて、冷たい水が流れて行ってるような錯覚を感じる。何を話しても、何を訊かれても、私はこの人のことを何も知らない。この人がどんな人で、どんな暮らしで、どんな家族がいて、どんな人生を送ってきたかなんて何も知らない。・・そう演じることは難しいだろう、でも、そう自分に思い込ませることはできる。
「そう・・。最近まで夫がいたんだけど・・。」
彼女はいかにも、”この続きを聞きたい?訊いてほしいの。”とでも言いたげな言い方をした。でも私は訊かなかった。それはボロが出るのを警戒したわけではなくて、私はもともとそういう人間だからだ。こういう時、人間は色んなことを考えすぎて、かえって普段と違う行動をしてしまいがちだが、それはむしろ逆効果だと私は思う。本当に崖っぷちに立たされた時ほど平常心は大切だ。難しく考えず、ありのままをまず受け入れる。どう動くかはそこからだ。あわてて動く時は、色々なことを深く把握しているつもりでも、案外大事なポイントを見落としがちだ。・・こういう術も、今思えばあの人から教わったのだ。それは看護婦を目指していた頃、患者さんの急変に初めて当たってしまった時彼が私に教えてくれたこと。私は今、あの人から授けられた知恵であの人の奥さんとのこの場を凌がなければならない。これも私の背負った運命なのだな、と思う。ここまでのこともあの人があの世から仕組んだことかはわからないが。そうだしたら随分しつこい。あの人も予測不能だった事態だと思いたい。
私が何も訊かずに黙っていたので結局彼女が自分から切り出した。
「死んだの。」
「どなたがですか?」
一言一言口を切るたびに喉から冷や汗が出るようだ。本当にのどが冷や汗をかくかはわからないけど。・・かかないと思う。
「・・夫が。」
「・・そうですか。お気の毒です。」
私は本当に今初めて聞いたかのように少し頭を下げた。
「本当。気の毒だわ。私、自分が可哀想なんて今まで思ったこと無かったけど、今回のは別。本当に私は可哀想だと思うわ。」
胸に鉛が押し込まれる。手が震え始める。ダメ。絶対。私は震える手を気がつかれないように下に隠した。が、途端に無性に煙草が吸いたくなった。喉が渇いてゆく。
「・・・。」
言葉が出ない。そこへ料理が運ばれてきた。”助かった。”安堵のため息をつく。それに彼女が気付く。
「ごめんなさい。初対面の人にこんな話。」
どうやら私のため息が自分への迷惑だと感じたらしい。そんなことは決してない。私にはそれすら選ぶ権利はない。
「いえ、違います。あの・・、煙草吸おうかと思って。そしたら料理が来ちゃったから。どうしようかと思って。」
咄嗟に言い訳をする。でも彼女は私の嘘を信じたようでこう言った。
「煙草吸ってから食べたら?私もそうするから。」
そしてバックから煙草のケースを出して、その中から1本出し、火を付けた。