第53章―呑まれてゆく蟻その6―
突然声をかけられてドキッとする。
「え?」
「バス。20分くらいないようです。行ったばかりみたいで。」
私は見るふりをしていただけなので、実際はちゃんと時刻表を見ていなかった。もう1度時刻表に眼をやり、
「ああ、本当。そうですね。」
と曖昧な返事をしながら彼女を見た。小柄の身体にぴったりの小さな顔。特別美人ではない(私だって美人とは言えない。)けれど、目鼻立ちの整った凛とした印象を与える顔だ。何故だか初めて会った人なのにそんな気がしなかった。
「どうぞ。」
彼女は少し座った位置をずらし、私に勧めてくれた。私は一瞬どうしようかと思ったが結局ベンチに座った。”どうしよう。バスに乗るわけじゃないのに。”
あんまりしげしげと見る訳にもいかなかったが、それでも私はチラチラと彼女を見てしまった。彼女は黙って空を見ているように見えた。まるでそこにあの人がいるかのように。・・・不思議な感覚がする。この人と私は同じ人を愛したのだ。言い換えれば同志みたいなものだ。でもそれをわかっているのは私だけでこの人は何にも知らない。何にも知らないのに彼の妻だというだけで、彼のすべての後始末をしなければならなかった。そう思うと、結婚なんて本当に紙きれの問題だと思ってしまう。妻だ、夫だと言ってもお互いのすべてを知ってる、わかってると思うと大間違いだ。なのに何かあると相手の全責任を取らなければならない。心底愛し合い、問題ない夫婦ならいいけれど、そうじゃなければ釈然としないものが生じるんじゃないだろうか。しかもそれを相手が死んだとき思い知らされるなんてたまったもんじゃないんじゃないか。おそらくこの人は夫が自殺するまで、自分たちはごく普通の幸せな夫婦だと思って疑ってなかったんじゃないか。そんな疑問が、次々と私の中に浮かんだ。そして何より、今この人はどうしているのか。あの人は私と別れた後どんなだったのか。それが気になった。でももちろん訊く訳にもいかない。そんな勇気はない。私たちは、ただ並んでベンチに座っていた。それだけだった。
やがてバスが来た。彼女がベンチを立つ。バスの方に向かって手を小さく挙げた。私はその姿を後ろからベンチに座ったまま眺めていた。バスが停まり、あの人の奥さんは黙って乗り込んだ。そして後ろに私がいないことに気がつくと驚いた顔をしてこちらを見た。私はベンチに座ったままだったが、彼女と眼があった途端、深く頭を下げた。それは本当に何も考えなく自然にそうしてしまったとしか言えない動作だった。ただ礼をしたくなった。彼女は何が起こったのか理解できず、”?”という顔をしていたが、私が頭を下げたので、バスの中から軽く礼をしてくれた。そしてバスが角を曲がり見えなくなったのを確かめてベンチを立った。
どうしても偶然とは思えなかった。私とあの人の奥さんが合う確率はどう考えても限りなく無に近い。今日じゃなかったら、今日ここに来なかったら、あの時間に病院に行かなかったら、あの時間に玄関に行かなかったら・・。偶然というには余りに出来すぎている。私は心のどこかで、あの人が私と奥さんを引き合わせたんじゃないかと思った。何故だかそう思いたかった。
やがて私もベンチから立ち、病院の駐車場に向かって歩き出した。歩きながらさっきまでそこにあったあの人の奥さんの顔を思い浮かべていた。
・・本当に、お世辞じゃなく、美しい人だった。世間一般で言う“美人”じゃなくても、あの凛とした眼、白い肌、小さな口元・・。”美しい“という言葉が一番しっくりくる。上品な白のブラウスだった。後ろで一つにまとめた髪は少しパーマがかかっていたかもしれない。私はあんなに美しい人を傷つけたのだ。あんなに美しい人から夫であるあの人を奪ってしまったのだ。私さえあの人に恋しなければ、例えしたとしてもそのまま胸にしまっておけばこんなことにはならなかった。あの人はそこそこの地位まで上がり、現在も患者を見続けたに違いなく、奥さんともおそらく波風立たずに暮らしていたのだ。そしてあの女性も、子供にこそ恵まれなくても、あの人とそれなりに幸せに過ごしていただろう。どんなに”そんなことはわからない”、”そんなことは考えても仕方ない”、そう思っても無理だった。
やっぱりあの人が今日のセッティングをしたのだ。私に自分の奥さんが今どんな風か見せるため。自分の奥さんがどんなに素晴らしい女性か知らせるため。私たちが・・私自身がしたことがどんなに罪深いことだったか思い知らせるため。それは私自身に大きな傷をつけるのに充分だった。私は自分の心から血が流れてゆくのを感じ取ることができた。でも辛くなかった。辛いなんて言えないと思った。私の辛さなど、あの人や奥さんに比べたら取るの足らないものだ。
私は本当はさっき奥さんに謝ってしまいたかった。申し訳なかったと。こんなことになるとは思ってなかったと。何か償いをさせてほしいと。・・でも最後までそれを言う勇気がなかった。私は怖かった。もし私がそう言ったことで、全てのことが表ざたになることが。志生に知られてしまうことが。その恐ろしさが彼女に話す勇気を超えてしまっていた。それに彼女は何も知らないはずだ。夫に女性がいたことを。もし彼女が夫の死を健康状態への不安からだと思っていたら、それこそ大変なことになってしまう。知らずに済んだことを知ってしまい、今以上に傷つくことになってしまう。結局は私だけがこの十字架を背負ってゆくしか方法がないのだ。そしてもう一つ思った。私が傷つけてしまった女性たちは、なぜか子供に恵まれない人ばかりだなと。富田さんにしても、奥さんにしても。二人が二人ともそうだ。そして私は今のところそんな心配はない。身体も健康だし、生理も順調に来ているし、妊娠したことはないけどそれはそれなりに避妊を完ぺき近くしてきたからだ。多分この先妊娠を望んだら、悩むこと無く子供を授かることができるだろう。
それはごく普通のことかもしれないけど、決してそうではないのだ。私は恵まれていたのだ。それなのにそれ以上のものを本能のままに欲しがり、たやすく自分のものにしていた。それが当たり前のように。だけど違う。自分のしたことで誰かが傷つくことがあるのだ。そしてもう取り返しはつかない。
志生・・。私はどうしたらいいのかな。あなたを富田さんに渡すべきかな。でもあなたはそれで幸せになるのかな。こうして、自分のことを悔やんでも・・、やっぱりあなたを愛してるとしか言えない。でも今は前を向いて歩けない。この纏わりつく砂、足をつかんだ蟻地獄から抜け出せない。志生・・。私は不意に立ち止まってしまった。さっきまで明るかった空に雲が広がり、やがて雨が降り出した。