第52章―呑まれてゆく蟻その5―
モーニングをできるだけゆっくり食べた。こうしていると確かに眼の前にあの人がいないことが不思議な気がした。今自分には穂村志生という恋人がいる。でもそれとは別で、あの人がこの世にいないというのが本当に不思議な感覚がした。実感がわかない。頭でわかっていてもどうしても事実だと理解できない。最後に別れた時、彼がどんな顔をしていたか思い出せない。どんな言葉を交わしたのかも。別れたくない、また連絡するというようなことを言っていたと思う。でも連絡はこなかった。あの日から私とあの人は全く無関係になったと思っていた。無関係という言葉さえなくなったと思った。・・思った・・。
喫茶店を出て再び車を走らせる。あの人の病院。この辺りでは一番大きい病院だ。私はちょっと躊躇ったが、中に入ることにした。 月曜なので混んでいる。外来は座る椅子も足りないほどの人だかりだ。これでは病気を治しに来てるんだか逆にもらいに来てるんだかわからない。待合所には何台か空気清浄機が置いてあったが、とても追いつかないだろう。私の足は自然と彼の外来の方へ向かっていた。そこにもたくさんの患者が溢れていた。一人3分診療でも診察が終わるのは午後2時は回るかな。あ、ここは完全予約制だからまだ増えるのか。先生気の毒に・・。よく待つのは2〜3時間、医者に会えるのは2〜3分と言われる。でも医者の方も、精一杯やっている人がほとんどだと思う。患者一人に3分使ったとして、1時間にフルで20人。実際はそんなにうまく運べないからせいぜい15人。午前9時から4時間ぶっ通しに診療しても60人。その間、たいがいの医者はトイレさえままならない。
「俺もさ、患者さんと話したいよ。中には病気だけ診ていればいいという考えの医者もいるけど、俺はそうは思わない。病気だけじゃなくて人間を診ている商売だと思っているから。だけど実際ゆっくり話すのは外来じゃ厳しい。時間に追われる。外来が終わっても病棟の患者がいる。検査に立ち会わなければならないこともある。ほとんど昼飯はかっこみ。休みなし。ポケベルとピッチが鳴らない日はない。気がつくと業務に追われてて、患者自身を診ていない。ジレンマが生じる。」
・・あの人から何度も聞いた話。だからこそ看護婦は患者の声に耳を傾けることに重点を置かなければならない。医者と患者の間を友好に保つ為の良い潤滑油になるのも、看護婦としての重要な仕事。
「いつか萌と仕事できるようになったらそのあたりは大丈夫だ。君とは意志の疎通どころか身体の疎通もばっちりだからね。」
彼はそんな冗談も言っていた。私もいつかそうなればいいと思っていた。看護婦免許を取った時も彼の病院に就職することも考えた。でもその頃には恋人という関係がお互いの身に沁み込んでいて、同じ病院に勤めることに不安があった。彼も躊躇していた。どこでボロが出るかわからないし、大学病院でスキャンダルはご法度中のご法度。それで今の病院に私は就職したのだ。
彼の使っていた診察室の前に来ると懐かしさがますます込み上げてきた。そしてそこには彼がいなくなったという証が張り出されていた。
『毎週木曜日に診療担当されていたA先生は、諸事情により当分の間休診となります。A先生担当の患者さまはK先生、F先生が担当されますのでご了承ください。ご不明な点は外来受付までお願いします。』
・・当分の間なんて。もう一生ないのに。酷いごまかし方だ。私はため息をついて出口に向かって歩き出した。と向こうから一人の医者が看護婦と歩いてやってきた。その医者は白衣のボタンを閉めていなかった。そのため歩くたびに白衣が後ろにはためいた。それは彼と同じスタイルだった。デジャヴ。昔あの人の外来日に患者として来ていた私は、廊下の向こうから白衣をなびかせて颯爽と歩いてくるあの人を見るのが本当に好きだった。医者としての自信にあふれ、”今日も1日行くぞ”という希望が見えた。彼を見つけると患者の何人かが先生、先生と声をかけていた。なので診察室までくるわずかな距離に時間がかかっていた。そんな彼を見ているのも幸せだったし、その彼が自分の男だという優越感は何にも代えがたいエクスタシーだった。
病院の玄関を出た時、一人の女性がスーツ姿の男性達に深くお辞儀をしているところを見た。
「本当に色々すみませんでした。」
「いえ、A先生には頑張っていただきましたから・・」
え?つい後ろを向く。お辞儀をした女性はこちらを向いて歩きだし、私の横を通り過ぎる。この女性?まさか?一瞬呆然とする私に声が聞こえてくる。
「奥さん、また痩せましたね。」
「無理ないよ、こっちも大変なくらいだから。」
「ああ、ドクターの補充ね。」
言いながら彼らは中に入っていった。・・・間違いない。あの女性はあの人の奥さん!私は反射的に彼女を追った。彼女はバス停に向かっているようだった。
後ろから見ると、本当に小柄で細い人だ。身体が弱いと言っていたあの人の言葉を思い出す。バス停に着くと彼女はバスの時間を見て、それから自分の腕時計を見た。そしてため息をつく。どうやらバスはすぐに来ないようだ。彼女はそのままそこにあるベンチに座った。私は彼女の前に立ち、自分もバスの時間を見るふりをした。
「すぐはないようですよ。」