第51章―呑まれてゆく蟻その4―
いつ眠ったのかわからなかったが、眼が覚めたら外が明るくなっていた。そのまま窓へ手が伸び、救いを求めるように窓を開ける。自然の光が欲しい。
窓を開けると太陽の明るさが空一面にあり、その注がれた光が私の部屋へもまっすぐ入ってきた。”なんてありふれた素晴らしいことだろう。”私は、こんな私にも分け隔てずに暖かい光を伸ばしてくれる太陽に感謝していた。今まで太陽に感謝したことなんてなかった。あるのが当たり前だった。でも今は知っている。当たり前に与えられているものなど何処にもないのだ。自分がいなければあの人が奥様と幸せに暮らすなんて、どうして決めかかったのか。そんなことわかるわけもないのに。他人の人生を自分の物差しで測った報いを、私は今受けている。 ぐるぐる・・。お腹が鳴っている。精神的には食欲なんて湧かないはずだけど、身体は正直。覚醒したことを脳が読み取り、食物を胃に入れるよう指令している。私の意志はそこに存在しない。生命を維持するためには、人間の精神より肉体の欲求を満たす方が解決が早いようだ。
私はまた考えそうになるのをなるべく避けようと努力した。”何か食べよう。”そう思い、ベッドから立ち上がり時計に眼をやる。針は8時少し前だった。今日はどうしようかな。なるべく外に出た方がいいな。家で一人でいるとろくなこと考えないし。 私は、かろうじて蟻地獄に飲まれないように足掻いている自分を思った。その精神状態に陥ってしまったら、ゆくゆくは仕事にも影響が出るだろう。私の仕事は人間相手の商売なだけに自分の精神状態の安定さが大事だ。自分ではそんなつもりがなくても、ちょっとした言い方や接し方で患者さんを傷つけることもあり得る。毎日同じ、いや昨日よりもより良いサービスを提供するように精進するのが看護婦の基本だと私は思っている。その延長線に医療知識や看護技術の向上がある。サービスと一言でいっても幅広い。それにストレスがたまると抵抗力が落ちて、風邪をひきやすくなったり、病気が治りにくくなりやすい。自分がプロであると認識している以上、不可抗力はあるだろうが努力はしなければならない。
いつものようにシャワーを浴び、いっそ朝食も外で摂ろうかと考える。髪にドライヤーを当てながらふと今朝は携帯を確認してないことに気づいた。ドライヤーを置きベッドサイドに戻り携帯を見ると、メールが届いているのを知らせるライトが点滅していた。志生からだった。
「おはよう。昨日はネクタイをありがとう。今日さっそく使ったよ。誰かからネクタイもらったの初めてだったんだ。いいものだね。今週はいい気分で仕事できそうだ。そういえば今週の週末は勤務どうなってる?ゆっくり逢えたらいいね。」
・・・・。そうか。昨日今週末の勤務を言うのを忘れた。メールの返事を打とうとして、指が止まる。富田さんのことも言ってない。彼女は現在の志生の仕事を知っているのだろうか。滅多に会社自体に出勤しないことも。昨日言えばよかったのかな。でも、私がわざわざ教える理由はないよね。でもそれなら志生と話してもいいと返事したことと矛盾しちゃうかな。いや、私は”志生と話したい富田さんの気持ちは承知した”とはいったけど、”どうぞ。話して下さい”とは言ってない。だから別にそこまで気を使ってやること無い・・。なんだか誰かに向かって言い訳しているみたいと思う。誰に?自分に?私はメールを打つのをやめ、またドレッサーに行き、ドライヤーの続きをした。すでに髪は半乾きになってしまっていた。
TシャツとGパンに薄いカーディガンを持って家を出る。外はとてもいい天気で、空には悩み一つない。思わずチェッ、と舌打ち。車を出し、本当にあてもなく走る。でも、無意識にあの人との思い出が多い街の方へ向かっていたようで、気がついたら二人でよく行った喫茶店の前だった。私はさっき無意識と言ったが、本当は無意識ではなくて、きちんと意識したそこに無意識的に本心があったんだと思う。あの人との日々を辿り、私が本当に求めている答えのヒントを得たいという本心。どんなに逃げたくても逃げられない軌跡。私はあきらめてその喫茶店に車を停めた。どれくらいぶりだろう。最後に来たのは・・、6月くらいだったか。
店に入ると店員から「いらっしゃいませ。」という言葉と同時に”あら、久しぶり。”というような顔をされた。そして”今日は一人なの?”という顔。さらに彼女は駐車場の方まで眼をやった。あの人が本当にいないのか確かめているのがありありとわかった。が、私は当然知らん顔をした。
「この・・、モーニングのAセット。紅茶で。」
「かしこまりました。」
彼女は最初いかにも興味シンシンの様子だったが、すぐにどうでもよくなったようで、有線のBGMからの音楽の方に耳を傾け始めた。私はぼんやりと外を眺めながらここでの思い出を回想していた。
私と彼は私が18の時知り合った。高校を出て最初に就職した先で貧血で倒れた時、入院したのがきっかけ。優しい物言いの医者に私はすっかりハマってしまい、その後何とか自分の男にまでとりつけた。それが19歳。そして20歳で看護学校に進学したわけだが、その時この喫茶店でよく受験勉強を見てもらったものだ。私は数学が弱くてかなり苦労した。彼も私に教えるのに苦労していた。何度教えてもらっても、いざ問題を解くと同じ所で間違える。ある日彼がとうとう言った。
「普通これだけ繰り返せば理解するはずだよ。ふざけてるの?」
もちろん大真面目に頑張っていた私はカチンときて反論した。
「一生懸命やってるよ!でも苦手なんだもん、しょうがないじゃん。」
「いくら苦手でもいい加減わかるよ。そんなに馬鹿だとは思わなかったよ。」
「!!」
教えてもらっている立場のくせにその言葉にさらにカチンときてしまった私は、受験勉強のストレスも手伝って爆発してしまい、思わず眼の前のコップの水を彼の顔にひっかけた。
「何するんだ!」
「どうせ私は馬鹿よ!でもあんたに言われる筋合いないわよ!まともな付き合いじゃないくせに。」
言ってしまって”しまった”と思ったが、もう後には引けずそのまま店を出た。彼は後から付いてきたが、その日はお互い車で来ていたので、私は構わず自分の車に乗りこみ発進した。
・・・結果的にはすぐにお互い謝って仲直りしたと思う。とにかくあの頃の私は若いうえに世間知らずのわがままだったから(勤めていた職場も彼と付き合い始めてしばらくして辞めた。彼がお小遣いをくれたので金銭的に困ることが全くなかったから。)、自分の立場もわきまえず言いたい放題だった。今思うとあの人は私に困ることも多かっただろう。お互いがそれぞれの主張で相手を振り回した。でも一緒にいたかったから4年も続いたのも事実だと思う。私は好きでもない男と惰性だけで長続きするような女じゃないのだ。