第49章―呑まれてゆく蟻その2―
その日私たちは夕暮れの街を歩いた。志生が新しいネクタイを買うと言ったからだ。
「何本か持っているんだけど、そろそろ秋っぽいのが1本欲しいなあと思って。」
「明日からはどこ?」
「今週は高知と愛媛。2日ずつ分けて四国の中。」
「へえ。そういうのもあるんだね。」
「なるべく同じ方面を同じ週にするんだ。両方とも1軒ずつだからね。」
「色んなところに行けるのは羨ましいけど、忙しくて観光なんてできないんでしょ?」
「仕方ないさ。仕事なんだから。でも、営業所によってはちらっとでも観光案内してくれる人もいるよ。」
「営業所?」
志生の話では会社の各営業所が全国でそれぞれエリアを持っていて、志生のように製品工場から社員が行くと、修理依頼のある家まで案内をしてくれるのだそうだ。
「そうなんだ。私はお客様と志生の会社の人がじかに話して修理に行くのかと思ってた。」
「そういうことも稀にあるけど、基本的には俺の所は製造元で、それを全国のショールームで販売しているわけだから。客とじかにやり取りするのはそういうとこの営業マンだよ。で、客がら修理やクレームが来ると製造へ連絡が来て、俺ら職人が動くってわけ。」
「ふうん。色々あるのね。」
「普通、ものを作る会社はみんなそうだよ。萌の仕事が特殊だから知らないだけで。」
「看護婦って特殊かな?」
「資格持ちってそうじゃない?何となくだけど。」
結婚したら・・こういうことも分かるようにならないといけないのかなと思う。結婚するなら、だけど。
私たちはデパートに入りメンズのコーナーに向かった。日曜日なのでほどほど混雑している。私はメンズ売場にほとんど足を運んだことがないのでちょっと居心地が悪く感じたが、志生とネクタイを見ている間にだんだん慣れてきた。
「これからは萌にも選んでもらえるから悩む時ラクだな。」
「今までいつも一人だったの?」
「そうだよ。」
だって富田さんが・・と余分なことを言いそうになって思わず口を噤む。そうか。富田さんとロクに会えなくなったころから出張が忙しくなったと言ってたっけ?じゃあ私が1番最初なんだ。軽い優越感。そしてそんな些細なことにこだわる自分に苦笑い。 何本か候補を絞り、さらに2本に絞ったが、どちらも色やデザインが個性的で決められなかった。
「2本あってもいいけど・・。でも今日は1本分くらいしか予算を持ってこなかったんだよな。萌と御飯が食べられなくなるよ。」
「じゃあ、1本私からプレゼントさせて。」
「なんで?俺の誕生日はまだだよ。」
「いいじゃない、理由がなくても。これ素敵だし。志生にしてもらいたいな。」
それでも今まで志生が私のために使ってきたお金を考えれば食事1回分なるかないかだ。いつもそれを申し訳なく思っていた。志生は私の気持ちを察してくれたようで
「それじゃありがたく。」
と言って、それでも高い方のネクタイ自分で払った。私はわざとプレゼント用にラッピングを頼んだ。隣で志生が
「要らないだろ、それ。」
と言ったが無視した。プレゼントというのは、中身がわかっていても、開ける楽しみから楽しむものだ。私がただニコニコしていたら志生もその後何も言わなかった。
入ったのはデパートのレストラン街にある鉄板焼き屋だった。志生がもんじゃを食べたいと言ったからだ。
「焼酎1杯だけ頼もうか。」
「うん。」
チューハイを飲みながらもんじゃを焼く。志生が上手に土手を作った。
「上手だね。」
「学生の時バイトしてたんだ。」
「そうなんだあ。」
「萌はバイトしなかった?」
「したよ。レンタルビデオ屋の店員とか。」
「へえ。」
まだお互いの色んなことを知らないんだなと改めて思う。新しい情報は文字通り新鮮な気持ちにさせる。今日はこのまま穏便に済みそうだ。そうよ。少しくらい息抜きをさせてほしい。毎日毎日息がつまりそう。あの人に心の中で”ごめんなさい”と呟く。富田さんにも。また家に戻ったら考えるから。今だけ忘れさせて。
デパートを出て駐車場まで行く途中、志生が言った。
「萌と連絡が取れなかった何日か、本当に長かった。きつかった。萌にたった1晩だったけど本当につらい思いをさせたと思ったよ。」
「・・そう。」
今日の富田さんが浮かぶ。志生に言ってしまおうか。でもなんとなく言えなかった。
「もうあんなことはないから。悪かった。」
「うん。」
思わず”もういいよ。”と言いそうになる。なるべく富田さんの話はしたくない。ボロが出そうだ。
「・・萌が何をかかえてるかわからないけど、何があっても俺の気持ちは変わらないから。いつでも話せるようになったら言って。」
「うん・・。」
なんだかはっきりした返事が出来ない。志生に悪いと思いながらも。うつむき加減に歩く。すると急に志生が私の肩を抱いた。歩きながら私と志生は身を寄せ合った。
それきり志生は何も言わなかった。私も口をきかなかった。でも志生の言いたいことが、肩を抱く手や寄せた身体の温もりから伝わってくるようだった。
「愛してる。」
そう言ってくれている。言葉という音がなくても伝わる想い。だからこそ痛かった。喜びが痛かった。”私はあなたにふさわしい女じゃないの。あなたの人を愛する誠実さが苦しいの。私は人を殺めてしまったの。取り返しがつかないの。なのにのうのうとあなたの隣にいる。富田さんのことも言えない。今わかった。富田さんのことを言えないのはあなたに富田さんのことを思い出させたくないから。もしかしたらあなたが富田さんの所に行ってしまうんじゃないかと怯えているから。あなたがどんなに優しい言葉をくれても信じるのが怖いから。”
・・・今夜は眠れるだろうか。また怖い夢を見そうな気がする。なまじ志生に逢ったあとだから余計に辛い。蟻は時には大きなものにも噛みついて勝つというけれど、それは仲間が沢山いるか、生きることに自信がある蟻だわ。ここにいるのはなんの力もない小さな蟻。自分の心にも勝てない蟻。助けを求めるすべさえ知らない。
志生に身を寄せて歩きながらも、私は容赦なく押し寄せる孤独感に途方に暮れていた。