第44章―招かれざる客その1―
「暁星萌さんですよね?」
その女性は薄いラベンダー色に細かい花柄のワンピースを着ていた。背筋をしゃんと伸ばし、品の良い紺のヒールを履いている。すらっとした印象の美人だった。私といえば家と職場の往復だけだったので、Tシャツに色落ちしたGパンとサンダルという出で立ち、髪もぼさぼさ、化粧をしてない上に夜勤明けで顔色が悪いという有り様だった。
「はい・・、そうですけど。」
私は訝しげにそう言った。誰だろう?まさか。あの人の奥さん?やはり私のことがわかって・・。
「すみません、不躾に。私は富田知紗子と申します。」
!!!
「あの、私のこと、穂村君から聞いてますか?」
「・・何のご用でしょう。どうしてここが・・。」
「すみません、実はこの前あなたと穂村さんの車を・・。」
!!あの最初の時か?でもあの時はレストランで大ゲンカになって・・。
「コンビニから穂村君が出てきてあなたの車に乗ろうとしていたところに私の車が入ったんです。穂村君は気付かなかったけど。」
ああ、あの時。
「・・・・。」
「あの、少し話をさせていただきたいのですが。」
私はないわ、と言いたいところだが熱くなってしまってはダメだと思いなおした。”熱くなれば負ける。”別に勝ち負けの話ではないのかもしれないが少なくとも私はそう思った。自分のことを棚に上げて負けたくないと思ってしまった。仕方なく私は
「散らかってますが。」
と、彼女を促し階段を上がり始めた。階段を昇りながら改めて思う。”こんなに綺麗な人だったなんて。これで40?志生より10歳も年上にはとても見えない。せいぜい4歳。いっても5歳くらいの差にしか思えない。”実際彼女は、とても男によりを戻したいと詰め寄るようなタイプに見えなかった。街中で見かけたら
「あの人、ちょっと素敵ね。憧れるわ。」
と思うであろうくらいの優しい、品のある雰囲気だ。志生の話だけで、年増のおばさんが意気込んでいるようなイメージを持っていた自分の想像力の貧しさを恥じた。と同時に”これくらいの人なら別れた恋人を追いかける自信があるのかもしれない。”とも思った。
部屋の鍵を開けようとした時、私は今の部屋の状態がどうなっているのかわからなかった。でも下着が干してあるのだけは覚えていた。同性でもさすがに見られたくない。友達なら笑えるがこの人と私は他人だ。いや、他人とは言えないか。同じ男を好きで、同じ男に抱かれ、同じ男の身体を知っているのだから。だけど、だからこそなおさらたとえ小さな洗濯物にもナーバスになってしまう。
「すいませんが、ちょっとここで待っててもらえますか。」
「はい。すいません、突然で。」
まったくだと思いながら部屋に入る。どうして今日なんだろう。なにも夜勤明けのぼーっとした時じゃなくてもいいではないか。タイミングが悪すぎる。もうこれ以上のストレスを抱えたくない。精神的に耐えられそうにない。そんなことを思いながらも急いで下着の干してあるハンガーを浴室に持っていき、その辺の散らかっているものを片付けた。窓を開け、風を入れた。ため息を一つつく。”よし、いくか。”
「お待たせしました。散らかしていますがどうぞ。」
「失礼します。」
富田さんはヒールの靴を綺麗に揃えて脱ぎ、私の用意した黄緑のスリッパをはいた。私は一瞬キッチンのテーブルに案内した方がいいかと迷った。居間にはテーブルのすぐ脇にベッドがある。富田さんにベッドを見られるのがなんとなく嫌だった。でもキッチンはどんなに小さくても女の城だ。その家の女の部分が最も出るところだ。私は仕事バカなので家事はどちらと言えば不得意で、だからキッチンもそういうキッチンだった。見る人が見ればそれは一目瞭然。居間も嫌だが、キッチンを見せてこの人がどう思うか考えると私はとてもキッチンのテーブルに通すことができなかった。で、消去法で居間のテーブルに通し、最近は志生が使っている座布団を置いた。
「今お茶を入れます。」
私がそう言うと彼女は心から恐縮したように
「どうぞ何もお構いなく。本当に申し訳ありません。お仕事帰りなのでしょう?」
と言った。どう返事をしたらいいかわからなかったので私はそのままキッチンへ行き、紅茶を二つ用意した。食器棚から普段は使わない洒落たデザインのカップを出す。
キッチンから何気に彼女の後ろ姿を眺める。まっすぐな正座。ワンピースのフレアーが綺麗に円を描いてその足を隠している。髪は肩の少し下くらいで緩くパーマをかけている。後ろだけ見たら20代でも通りそうだ。それにしても。いったい何の話でここに来たのだろう。何を言いたいのだろう。言いたいのは私じゃなくて志生にじゃないのか。それとも志生に話してもらちがあかなかったので私に来たのか。私が20代前半の世間知らずの女と思ってきたのだろうか。志生は私のことをどこまで、どのように話してあるのだろう。こんなことになるならこの前の夜ちゃんと聞いておけばよかった。でもあの時はあの時で、富田さんのことまで考えられなかった。あの人のことを志生に知られたくなくて。でも志生と別れたくなくて。そう。私は志生と別れたくない。志生を失いたくない。誰にも渡したくない。どんなに富田さんが同性から見てもいい女だと認めざる得なくても。
「どうぞ。」
「すいません。いただきます。」
私も彼女の前に座った。座った途端疲れがどっと押し寄せる。なのに頭は緊張感で冴えている。沈黙が辺りを包んだ。
「で、お話というのは何でしょう?」
沈黙に耐えきれず切り出す。彼女はちらっと私の顔を見てまた眼を逸らす。言いにくそうに口元を動かし、唇を噛んでいる。だがやがてゆっくりと声を出した。
「・・誠に申し上げにくいことですが・・。」
「・・・。」
と、その瞬間彼女はその場に土下座をした。
「穂村君と別れていただけないでしょうか!お願いします!」
・・・!!私は目の前で何が起こったのかわからなかった。眩暈がしそうだった。