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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第43章―過去までの距離その18―

 目が覚めた時、掻いている汗の量にびっくりした。・・いやな夢だった。時計を見る。午後の1時だった。もう起きて身体を慣らさなければ逆に夜勤に入る頃だるくなってしまう。でも疲れがとれていない。寝たのに寝た気がしない。まだ身体が砂地に埋められているような感じがする。

 私はなんとか気を取り直し、ベッドから出て浴室に向かった。脱衣所の洗濯機を見て、昨日志生が来たどさくさで洗濯をし損ねたことを思い出す。一瞬面倒くさいと思ったが、今夜もいないので洗濯機を回す。そして熱いシャワーを浴びる。燦々とした湯を全身に浴びていると身体から砂が流れて行くようだった。そうしながら夢のことを考えた。でも考えようとすればするほど記憶がおぼろげになり、さっきまで見えていた輪郭もぼやけてきた。私はしばらくその夢の輪郭を思い出そうとしていたが、結局やめた。追いかけても仕方ないことは引く。

 冷蔵庫の冷凍室の中に冷凍ピザがあった(昨日志生が買ってくれた)のでそれで昼食を済ませ、洗濯機が止まったので中から洗濯物を取り出した。携帯で天気予報を見ると雨の心配がなさそうなので、下着以外はベランダ(と言っても名ばかりで文字通り洗濯物を干すくらいしかスペースがない)に干すことにした。窓を開けてちまちまと干している時に、ふと視線を感じて下を見た。そこには見たことのない女性がいたが、そのままアパートの前を通り過ぎていった。私はそのまま気もとめずに洗濯物を干し続けた。


 その日の夜勤は大当たりだった。ここで言う”大当たり”というのは大忙しで大変という意味。急患が入院し、ほかの病棟で急変があり(うちの病院は夜勤の看護婦が少ない人数でやる為、他病棟で何かあると業務を補い合う)、いつもはコールをしない人が大したことないことでコールをしてきたり・・と、夕食も摂れずに走り回った。やっと一息つけた時はすでに23時。巡視の時間だった。21時の就寝巡回をあわただしく回ったので、いつにも増して時間をかけて回る。まだ夜勤記録も書いていない。明日の採血の準備も、検査の確認も。お腹も空いた。でも、身体を動かしていると色んな煩わしさを忘れられる。ちょっと立ち止まっただけですぐ不安が追いかけてくる。その度に自分の人生を苦々しく見つめなければならない。眠っている間だけでも意識したくないと思うけど、あんな夢を見てしまうと眠りにつくのも怖くなってしまう。ちょっとまずいなと思う。軽いうつ状態に近い感じ。自分で自分の精神状態を第三者的にみるとそんな感じだ。でも1度縛り、絡まった紐はそんなに簡単にはほどけない。それと同じように過去は・・人が生きてゆく、すぐその後ろから作られる軌跡は・・過ぎてしまったその瞬間から変えられないし手も届かない。だからよく”悔いのないように生きろ”とか、”一瞬一瞬を大切に”とか聞くけれど、生きているその時は目の前のことで普通は精一杯であと先を常には考えない。ましては恋心は惚れてしまえば周りは見えない。お互いが求め合ってしまえば、たいていは多少のリスクを背負っても抱き合ってしまう。人間は浅はかなので障害のある愛情の方が燃えるし、運命を感じてしまう。自惚れてしまう。そして”後悔したくないの”ともっともらしいことを言う。浅はかとしか言いようがない。そして1番浅はかなのは、何かを失わない限りそれに気づかないことだ。大切なものを失わないと気がつかないことだ。


 それでもその晩、私は2時間ほど仮眠した。疲れた身体は追い詰められている精神を超えてつかの間の眠りを与えてくれた。そして朝が来た。ナースステーションの窓を開けると、ちょうど朝陽が昇るところだった。雨が近いのだろうか、朝焼けしているように見えた。それを見ていたら高校時代の夏に見た夕焼けを思い出した。

 その頃私はちょっと体調を崩し入院をしていた。今思うと短い入院生活だったが、高校生まっただ中の私には1日1日がとても長かった。その時1番顔を見せてくれたのが潤哉とその彼女、次によく一緒に遊んだ仲間だった。ある日潤哉と彼女と仲間の1人が来てくれることになっていたのだが、彼女が都合が悪くなり男二人でやってきた。私たちは3人で病棟の1番奥のベランダでおしゃべりをした。他愛のない話だったけど、その頃は日々の小さな出来事ひとつひとつに意味があった。青春時代というのはそういうものなのだと今はわかる。でもその頃はそんなことよりも好きな人のしぐさひとつ言葉ひとつの方が大問題だったが。話を戻そう。その日は街の花火大会があって、私たちは夕方から話をしながら夜を待っていた。いつか夕暮れの時間になり空がどこまでも紅く染まった。素晴らしい夕陽だった。果てなく広がる茜色に私たちはつかのま話をやめた。誰も口を開かなかった。私の人生の中であれほど美しい夕陽の光景は他にない。今でもない。

 昇りゆく朝陽を見送りながらそんな懐かしいことを思い出し、思い出せる記憶がいつもこんな幸せなことばかりだったらいいのにと思う。キラキラとした、宝石箱のような思い出ばかりならなんて素晴らしいだろう。もちろんその頃にも悩みがあったし、苦しみや悲しみもあった。でも今の私に比べたら取り返せることばかりだった気がする。今の私の悲しみは取り戻せない悲しみだ。どうにもならない苦しみだ。

「さ、仕事仕事。もうひと頑張り。」

私は今朝の採血やら点滴やらの確認を済ませ、検温のためにナースステーションを出た。

 時間通りに業務を終え退社する。疲れた泥のような身を引きずりアパートへ帰る。車を止めようとした時一人の女性が視界に入る。どこかで見た気がする。誰だっけ?思い出せない。その女性(ひと)はアパートの階段を見上げていた。どっかの部屋の人だったかな?・・いや、違う。他で見た気がする・・。

 そして車を駐車場に入れた時その女性(ひと)と目が合う。・・わかった。昨日洗濯物を干してた時に下を歩いていた人だ。何してるんだろ?誰かを訪ねてきたのだろうか。バタン。ドアを閉めた時には彼女は私の目の前に来ていた。その顔を見た瞬間、なぜか私の全神経が警戒態勢をとった。

「初めまして。暁星萌さんですよね?」

なんて私は運の悪い女なのだろう。誰だとしても夜勤明けの酷い顔と疲れ果てた身体の時に、こんなに真近で女性と会わなくてはならないなんて。

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