第42章―過去までの距離その17―
次の日の朝、志生を自宅の近くまで送った。
「夜勤頑張って。」
「うん。」
「明日、帰ったら一応連絡して。」
「うん。」
志生が降りて歩き出したのを見て車を発進させる。9時か。もう少し寝よう。そう思いながら自分のアパートに帰る。その運転中、色んな気持ちがまた交差し始めた。志生は一応私の話を全面的に受け入れてくれた。私もそれに甘えた。志生に抱かれ、その腕の中で眠った昨日の夜は本当に安らいだ心地だった。だけどこうして一人になると、途端にまた同じ問題がよみがえり、頭の中で堂々巡りを繰り返し始める。
忘れられたら楽なのに。いや、私は本当に忘れてしまうんじゃないだろうか。完全に忘れることはないけれど、意識から薄れてゆくのは否めないだろう。時間が経てば今のこの苦しみも落ち着くには落ち着くだろうし、あの人が死んだという事実を受け入れることに慣れ、それが生活の一部となり、いづれは何かの拍子に思い出すという風になっていくだろう。・・それが怖い。それに慣れて行くだろう自分が怖い。この仕事をしていると、人の死に鈍感になっていくような気がする。人の死があまりに日常だからだろうか。でも、あの人は患者さんじゃない。私にとって本当に特別な人だったのだ。たとえ不倫でも何でも4年もあの人と過ごしたのだ。結婚だって夢見た。あの人は奥さんとは絶対(この”絶対”がどれほどつらかったか)に別れられないと言ってたけれど、女が男を愛してその人と自分と付き合ってたら、結婚を夢見ることは普通だと思う。しかも私はあの時まだ19だった。若くて、大きな口をたたくのと身の程知らずの夢を見ることだけ得意で、恋愛の厳しさも、世間の厳しさも知らないまま、大人の男だけ知ってしまった。楽しかったのは最初だけで、あとは辛いことや悔しいことばかりだった。何度も何度も泣くことばかりだった。幾度あの人を責め立てたことか。嫉妬の感情が愛する気持ちを超えてしまって、それでも恋しくて。嫉妬という字は女偏に疾、そして女偏に石と書く。中国の文献によると、この疾という字は”矢の如く速くかかる病”という意味を持つ。それより重い病気を、文字通り”病”というのだそうだ。嫉妬というのは女の心が男を思うあまりにあっけなく疾にかかり、石のように硬くなってしまうということだと、私の中では解釈している。でも・・それでもあの日々に愛がなかったというのはあまりに淋しい。だって私はあの人のそばでいつか仕事ができるようになりたくて看護婦を目指したのだ。もともと看護婦はあこがれの職業だったけど、もしかしたらあの人に出会わなければ・・あの人と恋に堕ちなければ・・今に私はなかったかも知れない。あこがれのまま終わって、もっと平凡な仕事をしていても不思議じゃない。そして・・志生と出逢ってなかったかもしれない。私が志生に看護婦になった理由を言いにくいのはそこかもしれない。あこがれて・・で済むような話なのだが、それだけでは私の中でなんとなくしっくりこない感じがするのだ。そしてだいたいそういう話は、どんなにうまく言葉を使ってもどこかおさまりが悪くて、得てして相手にも伝わってしまう。
それでもいつか、志生になら看護婦になった理由を言えるような気がしてた。この前までは。だけどこうなってしまったら余計言えなくなった。いっそ看護婦をやめてしまおうかとも思う。でも、それではますますあの人の死や、自分の過去から逃げるだけになってしまう。だいいち志生にそれこそなんて言えばいいのか見当もつかない。それに・・、そう、私は看護婦という職業をいとしくてならない。大変だし、汚いし、しんどいけど・・この仕事を放棄したいと思ったことが1度もないのだ。
アパートに着くと私はそそくさとベッドに入り、間もなく眠りに落ちた。シーツや枕から志生の匂いがしていた。まるでまだそこに志生がいて、私を包んでくれているようだった。でも心地よく眠ったわりに、見た夢は鳥肌が立つような気味の悪い夢だった。またも私は海の前に立ち、誰かを呼びながら浜辺を彷徨い歩いている。今まで見た海はたいがい晴れた空だったが、その日はやけに紅い夕暮れで、しかも日が沈むのが異様に速かった。私は不安になり自然に早歩きになってしまう。そうしていたら急にストンと足が下に落ちた。・・?。私の足の底は確かに砂浜を蹴っていたのにどこへ落ちるのだろうと思う。と、その瞬間砂浜がものすごい速さで私の足をとらえ沈んでゆく。砂漠の蟻地獄のように。私は本当に蟻地獄に捕まったと思い、一生懸命足を取ろうとする。でもどんなに引っ張っても抜けない。そして気付く。引っ張っているのは砂ではなくて”何か他のもの”だと。”何か”が私の足をとらえてぎゅっと握って離さないのだ。私がどんなにあがいてもあがいても足は抜けない。それどころかどんどん砂地に沈んでゆく。とてつもなく強くて大きな力だ。いつの間にか夕陽は遠くなり、あたりは暗く、さっきまで鼓膜に届いていた波の音も聞こえなくなっている。ここはどこなの?私はどこにいるの?そうしてもがいている間に私の身体はあっという間に砂にのまれてゆく。助けて!と言いたくても声も出ない。もがいている間に砂が喉に入ってしまったからだ。もはや私の身体は砂に埋まりその一部になっていて、自分の身体なのに手も足もどこもかしこも動かない。感覚すらない。ああここで私は死ぬんだと思う。なのに砂は私の頭だけ残してしまった。そして中途半端にやっと空気を探す喉を。私は苦しくて苦しくていっそ死なせてほしいと懇願する。でもそれを言う声さえ出ない。砂がたくさん口の中や喉にあるのでつばも吸ってしまい、砂を吐くこともできない。なのに、なんとか肺に届くほどの空気は入ってゆく。空気が吸える為、死にたいのに無意識に空気を吸ってしまう。苦しい・・、苦しい・・、どうして、どうしてこんなことに・・・。そして寒さがやってくる。冷たい、凍てつく風が頬を打つ。それに気がつきふっと顔をあげると、空には降るほどの星が輝いている。あまりにたくさんで気持ち悪いくらいの数だ。いや、数えきれない。数える数えないのレベルの話じゃない。それくらいの星空だ。私はふと思う。あの星たちは死んでいった人たちなのだと。多くの悲しみや無念を抱えたまま、行き場がなくて星になってしまった人たちなのだと。でもそれは言葉につくせないくらい美しかった。どんなに小さな星でさえも美しい光を放っていた。みんな、みんな瞬いていた。美しすぎて気味が悪いようだ。私はその星空を見つめながら泣いた。手足も動かない、身体中に感覚がない、声すら出ない私ができることは・・ただひたすら泣くだけだった。ひたすら涙を流すだけだった。涙を流す意味さえも残されないまま。