第4章―別れの光景―
待ち合わせの場所に私が着いた時、珍しく彼が先に着いていて小さく手を挙げたのが見えた。
「着いてる…」
思わず口をついた。彼に聞こえないように。
いつもはたいてい私が先に(というより時間通りに。彼が時間通りに来るのは滅多にない。)着いて、毎回遅れる彼を心配しながらも、“今携帯が鳴ったらどうしよう。会えなくなったって言われたらどうしよう”と考えていた。そういう事が少なからずあったし、愛情が疲れに変わった最初のきっかけだったと思う。
私は今日、早めに来た。
彼を待ちながら、別れ話を切り出すプロセスを自分自身に叩き込もうと思っていた。こういう時に限って早く来るなんて…と思わずにはいられない。最後の最後まで噛み合わなかったという事か…!?でも、と気持ちを入れ換える。こういう事さえ、今日で最後なのだ。この次、というのはもう2度とない。絶対に。
「今日は早く着いたよ。」
と彼は微笑んでみせた。笑顔とまでいかない。いわゆる『医者』っぽい笑み。
「…そうみたいね。」
私は気のない返事を返した。彼は一瞬あれっ?というような顔をした。私が喜ぶと思ったらしい。
「こっちにおいでよ。」
彼が促す。ここは待ち合わせによく使う駐車場で、ここからどちらかの車で出かけるのが通常だった。
「ううん。今日は私の車にしましょう。」
別れ話が喧嘩になれば、彼の車より自分の車の方が都合いい。彼がもし不便な所で車を降りても、知らん顔で帰れる。そして、彼はそれをしない。今までどんなに大喧嘩をしても、結局最後に冷静なのは彼で、私は感情に負けてきた。わかってる、私は自分に負けてきた。独りに耐えられそうにない自分に。でも今日くらいは、今日だけは…負けたくない。勝ちたい。
「…じゃあ甘えさせてもらおうかな。」
彼が何となく“?”な面持ちで自分の車から降りた。バタン。ドアを閉める。そして私は深呼吸しながら、ゆっくり車を走り始めた。
「今日は少しゆっくりできるよ。何か美味しいものを食べよう。」
おだやかに彼が話し掛ける。私の横顔を見つめているのがわかる。優しい瞳…もう涙が出てきてしまいそうだった。重い鉛が喉元に上がってくる感じ。今日だけ今までのように過ごしてしまおうか…、別れ話はいつでもできる…さっきまでの勢いが途端に萎み始める。…いや、何度もこうして辛い事を見送ったからこそ自分を擦り減らしてきたのだ。だめ。ここで流されては、また同じ事の繰り返しだ…。私は何度もつばを飲み込んだ。そしてあまり人気のない川岸に車をとめた。
「…話があるの。そのあとでよければ食事に行くわ。」
彼の顔が固くなった。明らかにいい話ではない事がわかったのだろう。
「…なに?」
「今日まで、本当に楽しかったし、それなりに幸せだったけど…」
「何言ってんの?」
「話を途中で遮らないで。本当に楽しかったけど…」
「…。」
「別れたいの。ううん、別れる。今日、今ここであなたとは終わり。」
「…。」
私は彼の目を見ながらはっきり言った。彼はだまっていた。…ずっと変わらない。都合の悪い事が起きると黙り込む。
「もう、色んな事言いたくないの。最後くらいスッキリしたいの。恨み言も言わないし、聞きたくない。」
「今日は久しぶりにゆっくり萌と過ごそうと思ってたのに。」
彼はまだ私を宥められると思ってるようだった。空気を変えようとしている。手が私の髪を触ろうと伸びてきて…私はその手を遮った。
「やめてよ。」
私の冷たい声にさすがに彼の顔つきも変わった。
「…。」
「もうこうしてごまかされるのも嫌。あなたもわかってるはずよ。いつまでもこんなの続かないわ。」
言いながら結局涙が溢れてきた。もう嫌…。
「別れたくない。君にはいつも悪いと思ってるよ、でも」
「思ってないわよ!悪いなんて思ってない!」
私の顔は今、涙でぐしゃぐしゃだろうな、と思った。
「…思ってるよ。信じてもらえなくてもしかたないけど。」
「…。もうどうでもいい。お願い、別れて下さい。」
「どうしても?本当に?」
「はい。今度こそ。」
「…誰か好きな人でもできたの?」
…!一瞬あの人の顔がよぎった。穂村さん?何故?
「いません。」
「いいよ、別に。年上すぎる僕よりは…。」
「いないって言ったわ。」
私は努めて渇いた声で言った。でも鼓動が早くなっているのがわかる。涙も止まった。どうして?どうして穂村さんが出てくるの?
「本当にいないなら、僕と別れるのを急がなくてもいいんじゃないか。」
「…。」
「とにかく今日は帰ろう。お互い頭を冷やそう。僕も君との事を考えてみるから、君ももう一度考えてみてくれないか。」
「私の決心は変わらないわ。」
私はさっきから頭に浮かぶ穂村さんの寝顔にとまどいつつ、今目の前の事に集中しようとした。先延ばしにしてはだめだから。彼の顔をじっと見た。なんだか老けて見えた。
「さよなら。」
「…僕には言えない。駐車場まで送って。」
大丈夫だわ、と思った。冷静だもの。私はエンジンをかけて車を出した。
駐車場までふたりとも会話はなかった。一言も交わさなかった。そして駐車場に着いた。彼は黙って車を降り、
「萌。」
と口を開いた。
「別れたくないよ。だから今日はいつものように帰る。また連絡するから。」
「…さよなら。」
私は彼を見ずに前を見て答えた。彼はため息をついてドアを閉めた。すぐ車を出す。終わった。やっと終わった。多分彼は連絡してこないだろう。なんとなくだがわかる。今日から自分を縛っていた自分を解放だ。どこまでも自由だ。私は涙が出てこない自分に少し苦笑いしながらアクセルを踏み続けた。




