第36章―過去までの距離その11―
病棟に着き業務に入る前に携帯を確認すると、志生からの着信があった。何もメッセージはなかったけれど、たぶん心配してくれているのだろうと思った。このままじゃいけないと思いつつ、どうしてもこちらからかけることが出来ない。今声を聞いてしまえば決心がもろく崩れるのが眼に見えてる。志生の優しさが本当に辛く感じた。
その日の帰り、私は病院を出てまっすぐ携帯電話のショップに向かった。夕方、会社帰りの人で混んでいたので待ちそうだったが、私もその一人だから仕方ない。
「本日はどう言ったご用件でしょうか?」
努めてにこやかに店員は言った。営業用スマイル。おそらく腹の中では
「ったく毎日毎日この時間になると混み始めてイヤになっちゃう。たまには早く帰りたいのに。」
と言っているだろう(と思われる)。
「あ、今使っている携帯を解約して、新たに他のを新規で契約したいんですが。」
と答える。店員はちょっと困惑した顔をした。こちらが気がつかないくらいちょっと。多分時間がかかる客が来たと思ったのだろう。でもそんなの知ったこっちゃない。こっちにもこっちの都合があって今日来たのだ。
「わかりました。こちらのコーナーが新製品になっております。もう機種はお決まりですか?まだでしたらお待ちいただいてる間に・・・」
アパートに着いた頃には夜も8時近くて、私はくたくたに疲れていた。新しい携帯を見てため息をつく。なんだかそれは他人の携帯に見えた。志生が驚く顔が浮かぶ。電話もメールもつながらないのだから、きっと驚くだろう。志生、ごめんね。でも、こうでもしないと明日あなたからの電話に出ないでいる勇気がない。ううん、今夜だってない。私はわざと何も考えないようにしてTVをつけ、コンビニで買ってきたお弁当をもそもそ食べた。ただ濃いだけの味付けに感じた。何も美味しくない。そもそも食欲なんてなかったから仕方ないのだが食べない訳にもいかない。明日は必ずやってくる。誰の上にも平等に。そして明日も日勤だ。勤務表を見ると私以外は全員後輩だった。私がいないといざという時に下の人間が困るだろう。・・とそこまで思って、そんなことはないかと訂正する。私がいなくて本当にいざという事態になっても、後輩たちは自力で何とかするだろう。私がいなくても病棟はまわる。まわらなければならない。私がいなくても地球は回るし、星は輝くし、海は満ちるし、TVはうるさいし、人は食事もするし、気が向きゃSEXするし、子供も生まれるし、誰かが死んでいくし、今こうして私がこんなにつらい思いをしていても、そんなの誰も知ることもない。私の存在価値って何だろう・・。23にもなってそんなことも分からないなんて。私の本当の居場所・・、本当に私だけを必要としている人・・。志生しかいない。だけど私はその本当に自分だけを必要としてくれている、自分自身も1番必要なものを手放そうとしているのだ・・。でもいつか志生の傷は癒えるだろう。いつか立ち直れる。そんなに弱くないだろうし、どうしても淋しくなったら富田さんの所へ行ってもいい、どのみちその時は私とは関係がない。・・私はこれ以上志生のことを思い出すのをできるだけ避けた。混乱している。自分の気持ちがまとまらず混乱している。確かに病棟は私はいなくても何とかなるだろう、でも、いた方がもっとスムーズに業務は進む。朝は必ず来るのだ。
無理やりお弁当の残りを胃に押し込んだ。もはや何を食べてるのかさえわからなくなっていた。ただ食物を胃に流しているだけだった。ノルマのように。
食べ終わると新しい携帯を手に取り、てきとうに新しいメールアドレスを作った。今までのをずいぶん長く使っていたので空で言えるくらい馴染んでいたのだが、これも仕方ない。私は新しい携帯の番号とメルアドを打ったメールを、電話帳の上から順番に送れる人数分だけ送った。もちろん志生をはずして。1度に送れる人数に限りがあるので、それを何度か繰り返す。その間に何人からか返信が届いたが、私はとりあえず送れるだけ送った。何度か繰り返したのちにやっと終わって私は安堵のため息をついた。
疲れていた私は返信のメールを見るのが面倒臭かった。でも気を取り直して見ることにした。中には久しぶりに連絡を取るような友人もいたからだ。そしてやはりその中には、いつでも私を励ましてくれる存在の人がいた。何人も。だけどその人からの返信が1番私を安心させた。
「萌、久し振り!元気か?」
高校からの親友、潤哉だった。