第34章―過去までの距離その9―
1度当方の不手際で消去してしまい、読んでくださっている方々にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。これからもよろしくお願いいたします。樹歩
『W大学病院医師 院内にて自殺か』
去る8月17日、T郡G町W大学病院にて同院に勤務している医師Aさんが院内にて睡眠導入剤を多量に服用し倒れているところを同院の職員に発見され、同僚の医師らが懸命の治療にあたったが同17日深夜死亡が確認された。家族や関係者の話によると、Aさんは7月初旬より体調不良を訴え勤務も休みがちで、最近は不眠で睡眠剤を服用していた。G警察では遺体に外傷がなく、争った形跡もないことからAさんが体調不良を苦にし自殺を図ったとみて調べている。遺体は同院にて解剖予定の見通し。
あの人が・・自殺・・。
私は何度も記事を読んだ。信じられない、どうして・・!体調不良?そんなこと無かったはずだ。6月に職員検診があって結果にはどこにも異常はなかったと言っていた。私たちが別れたのが6月の終わり、、7月に入ってたかどうかくらい。確かにあの時、彼は別れたくないと言っていた。でも結局その後何も連絡はなかった。7月初旬、私が志生と付き合い始めた頃か。私が新しい恋に夢中になってる時、あの人は一人で苦しんでいたと言うのか。てっきり奥さんと幸せにやってると思っていたものと・・。だって奥さんとは別れられないと言っていた。それで何度も喧嘩になったんじゃないか。なのにどうして?あの人の中で私がそんなに大きな存在だったというの・・?次々と疑問が浮かぶ。でも、誰にも聞けない。あの人はもういない。どこにもいない。この世界の果てまで行ったとしてももう会えないのだ。私がそうさせたのだ。私が・・殺してしまったのだ・・!医師としてのあの人の人生、そして奥さんの人生まで狂わせてしまった。そんな権利、私にはないのに。誰の人生も奪っていい権利なんてないのに!
私は自分自身のすべてが深く深く暗い沼の底に沈んでいくのがわかった。志生のことなんか言えない。責められない。
「あんたのしたことは誰も幸せにならない。あんたの自己満足以外は!」
・・よく言うわ。私の方がよっぽど自分勝手の自己満足だわ。自分のことだけしか考えなかったばっかりにあの人は・・。私はもう幸せになってはいけない。誰にも幸せを求めてはいけない。私は茫然自失となって、まるで腰が抜けた人形のようにへたり込んでしまっていた。
もっと許せないのは、こんなことになったのに涙も出ない自分。あの人への恋がすでに完全に終わってしまっている自分。そして今さら奥さんの所に行く勇気もない自分、その一方で奥さんから万が一連絡があったらどうしようと思っている自分だった。
志生とは別れよう。どちらにしても、もう志生の問題だけではなくなってしまった。私は誰とも結婚などしてはいけない。自分のしたことを思えば志生のしたことなどとても小さなことに見えた。志生に話せばきっと彼はこの重い十字架を一緒に背負ってくれるだろう。でもそんなことはさせられない。もちろん志生には黙っていて、自分の胸にしまっておけばいいという手もある。私はあの人とのことを志生に何も言ってない。だけど私にはできない。あの人を知らなかったとはいえこんな目にあわせて、自分だけのうのうと幸せになんかなれない。
そこへ携帯が鳴った。・・志生だった。私は電話に出なかった。そして長い呼び出し音が切れた後私は携帯の電源を切った。
しばらくするとアパートの下に車が止まる音がした。反射的に志生だと思う。でもずっと食べていない(結局ミルクティーも栄養補助のお菓子も食べていない)のと寝不足で、自分の耳もはっきりしなかった。思わずベッドに潜り込み布団を頭からかぶる。逢いたくない、誰にも。増して志生には逢いたくない。はたしてそれは志生だった。ピンポンピンポンとドアホンを鳴らす。私は布団の中でビクッとする。次に志生はドアを叩く。叩きながら
「萌、萌、いるんだろ?俺だ、志生だよ。話をしよう。」
と言った。その声を聞いた途端、逢いたくないと思っていたのが急に変わった。志生に逢いたい。逢ってすべて話して懺悔したいという衝動にかられた。
「あの人が死んじゃったの。私が殺してしまったの。そんなつもりなかったの。でもどうしようもなかったの。」
そう言えてしまえばどんなに楽だろう。でも。もし志生が私を軽蔑したらと思うととても言えない。一緒に十字架を背負ってくれるだろうなんて言うのは、私の甘い幻想にすぎない。どんなに言い訳しても、どんなにきれいな言葉を使っても、所詮不倫は不倫。もし志生が私が思うより不倫に嫌悪感を持ってたら?そんな女だったのかというだろう。他人の家庭に手を出すような女だったのかと・・。志生にそれを言われるのは耐えられない。自分は志生にずいぶんなことを偉そうに言ったくせに。
その間も志生はずっとドアを叩いていた。私は音がしないようにゆっくりドアの方に近づいていった。・・このドアの向こうに志生がいる。このドア1枚隔てた向こうに志生がいる。私は目の前のドアがとてつもなく大きく、そして重たく感じた。すぐそこに志生がいるのに、なんて遠いんだろう。そう、私もこのドアと同じように心を閉ざすのだ。閉ざして、もう誰も入れてはいけない。まして志生は。思いながら涙が溢れてきた。
「・・何も話すことはありません。もう逢うこともありません。ご両親や高峰さんにはあなたから適当に話しておいてください。」
乾いた、事務的な言い方で言う。出ないと涙声がわかってしまう。
「萌。ドアを開けてくれないか。ちゃんと話をさせてくれ。ゆうべ俺も一晩中考えた。俺が悪い、どう考えても悪い。でも、俺は萌と別れたくない。」
・・・!私も・・別れたくないよ・・!
「俺には萌が必要だ、萌にも俺が必要だったんじゃないのか!」
私はその場に泣き崩れる。私もあなたが必要よ、本当よ。でもそれは言えない。
「帰って下さい・・。」
もう1度言う。志生はしばらく黙っていたが、やがてこう言った。
「わかった。今日は帰るよ。明日から秋田に行く。金曜日に帰るからその時はちゃんと話そう、いいね?向こうから電話もする、メールも送る。どうか無視だけはしないでくれ。・・それから、ちゃんと食事するように。」
・・ゆっくりと志生がドアの向こうから離れてゆく。足音が遠ざかってゆく。今ドアを開けたら・・、今志生って呼んだら・・!でも行けない。行っちゃいけない・・。エンジンがかかる。ゆっくりと志生の車が走り出す・・。
さよなら志生・・。私はいつまでもその場に座り込んでいた。嗚咽が止まらなかった。




