第32章―過去までの距離その7―
志生の車のエンジン音が聞こえる。志生はさっきの私の言葉のあと、一言も話すこと無くしばらく立ちすくんでいたけれど、結局そのまま黙って出て行った。
私も微動だにも動けずにいた。自分の口から出た言葉がまだ信じられない。酷いことを言った。とはいえ昔はあれくらいのことをあの人にぶつけていたけれど。でも、志生と出逢って、本当に愛し合う喜びを知って・・・もう誰かを傷つけるためだけの言葉を言うことはないと思っていたのに。
全部は聞かなかったけど、志生があの剣幕で何もしてないと言ったのだから多分本当に何もなかったのだろう。泣いて復縁を懇願する彼女を、ただひたすら説得し謝り続けたのだろう・・・。あの顔を見ればわかる。寝てない顔だ。目も赤かった。・・・でも、問題はそういうことではない。それだけじゃない。そんなに人の気持ちは薄っぺらくない。
私が言った言葉はストレートに志生の胸を貫いただろう。貫き、見えない血を流しただろう。だけど・・・、やはり間違ってたかと言えばそうは思わない。志生は行くべきじゃなかったのだ。少なくとも私に隠れて行ってはいけなかったのだ。私に嘘をついてまで行ってはいけなかったのだ・・・。本当に失いたくないのが私ならば。
私はそのままベッドに横たわった。疲れた・・・。なにもかも・・・。
何かが頭に当たり、どきっとして眼が覚めた。一瞬志生が髪を撫でたのかと思った。それはカーテンだった。ゆっくりと身体を起こす。3時。午後?窓を見る。まだ明るい。午後の3時だ。本当なら今頃、志生と二人で式場にいるはずだった。結婚式の日取りを決めて、結納まで出来るかどうか聞いてきてとうちの母は言ってた。もしかしたらウエディングドレスなんかも見られるのかなと志生と話していた。・・・話していた・・・。ついこの前の話なのにずいぶん昔に話したような気がする。・・・どうしてこんなことになっちゃったのだろう。あの女のせい?どうして今頃いくら志生を忘れられないからって、結婚が決まった人の所にまで出てきたのだろう。それだけ自信があったのか?志生より10も上で私より16も違ってて?普通じゃない。・・・だけど。彼女も普通じゃないけれど、ついて行く志生の神経の方がもっと信じられない。それは優しさとは言えない。優柔不断でさえない。ただ一時の情に流された意志の持たない男のすることだ。私が1番辛いのは本当はそこなのかもしれない。自分が一生を預けようとした男が、そんなに浅はかだったのかと思わなければならないのが辛いのかもしれない。
ため息をつき何気に鏡を見る。昨日も今日も泣き通しなので、今朝にも増して両まぶたが腫れあがり、とても外に出て行くどころではない顔だ。キッチンでタオルを濡らし眼の上にあてる。そしてまたベッドに横たわる。ふと気付く。何も食べていない。昨日の夕食が最後。もう20時間くらい何も口にしていない。でも食欲などあるはずない。何もかもどうでもいい感じ。・・・志生。私たちはこのまま終わってしまうのかな。私が何も気づかないふりをして、あなたの嘘を受け入れてあげればよかったかな。でも、それをすれば結局私の中でずっと大きな疑惑が育っていっただろう。どす黒い鉛を抱えたまま暮らしていくなんて、私はそんなに強くも出来た人間でもない。いつか無理が生じて、ちょっとしたことをきっかけにあなたに詰め寄ってしまうだろう。許してあげたい。あの人をもう1度信じてあげたい。すべて悪い夢だと思いたい。でも・・・、この先も同じことが起きないと言えない。今回のことでわかった。志生は情に弱すぎる。溺れやすい。富田さんがもう来ないという確証もない。
「お互い納得して別れたわけじゃなかった。」
あんな言葉を聞いてこの先絶対何も起こらないなんてどうして言えるだろう。そもそも人間の感情が動く時、絶対なんてことはないのだ。昔あれだけ味わったじゃないか。・・志生を信用できない限り、結婚どころか付き合いを続けることもやはり難しいだろう。
ちゃらちゃらちゃら・・・携帯が鳴った。誰?志生?ゆっくり携帯に手をも伸ばす。母からだった。マズイ。志生と一緒に式場にいると思って電話してきたんだ。
「・・もしもし?」
「萌?」
「うん、何?」
「何じゃないわよ。今日穂村さんと一緒なんでしょ?結の・・」
母は結納のことを気にしていた。それで電話してきたのだ。
「一緒じゃない。」
「え?」
「ゴメン、電話しようと思ったんだけど。今日志生の都合が悪くなって式場行けなかったの。で、私も夜勤明けだからそのまま寝ちゃって。」
「あら、そうなの?でもそしたらいつ行くのよ?明日?」
「ン・・どうかな。わかんないけど。でも、別に急ぐこと無いと思うの。」
「なんかあったの?」
「え?なんで?何もないわよ。」
「そお?この前はどんどん話を進めたいように感じたから。」
「たまたま今日行けなかっただけよ。」
母はそれ以上何も訊かず、良かったら夕食を食べに来るかと誘ってくれた。何も食べたくない。でも母のご飯なら・・と思いつつも、”この顔で行けるわけない”。
「うーん、昨日忙しくてろくに休めなかったの。あるもの食べて今日は寝るよ。」
電話を切った。時計を見る。まだ4時だった。母にああ言ったものの全く何も考えられなかった。志生は何を考えているだろう。私は本当はどうしたいのだろう。何も見えない。全くどうしたらいいのか見当もつかない。
そしてもっと予測も見当もつかなかったことが起きる。すぐそこに。