第31章―過去までの距離その6―
「・・萌。」
志生が部屋に入りながら、声をかける。私は怒りのあまりに身体中が震えて、声も出ない。
「萌、ゴメン。萌。」
「近寄らないで!」
私は近づいてくる彼から後ずさりして、でも狭い部屋だから限界あってベッドに足がぶつかり、座り込む形になった所でやっと声が出た。
「言い訳できることじゃない、わかってる。でも話を聞いてくれないか。」
「聞きたくない、それ以上こっちに来ないで。」
「頼む、萌。」
そう言いながら伸ばしてきた志生の手を夢中で払いのける。
「何したかわからない汚い手で触らないで!」
その途端彼の顔つきも変わった。
「何もない!何もしてない!」
私はひたすら志生を睨みつける。この男が憎い!憎い!憎い!
「本当だ、萌!信じろと言うのが無理かもしれない。でも本当だ。」
「あんたの言うことなんて何も信用できない!」
「確かに昨日富田さんの所に行った。でも」
!!!それを聞いた途端、気がつく間もなく彼の頬を思い切り引っぱたいていた。すごい音がした。同時にもはや枯れ果てたと思っていた涙が止めどなく溢れ始めた。叩いた手が痛い。だけど心はもっと痛い。
志生はそれでもひるまなかった。
「君が俺を殴って気が済むなら殴れ。君が受けた傷はもっと痛いだろう。好きなだけ殴れ。」
私は黙って志生の赤くなってゆく頬の顔を見据えるだけだった。流れる涙もぬぐわず。
「富田さんは俺とやり直したいと言った。団体で俺が結婚することを誰かに聞いたらしい。多分お袋が誰かに言ったのが伝わったんだろう。彼女はもう1度自分のことを思い出してくれと言ってた。」
「・・・・・。」
「確かに彼女の車に乗った俺が悪いと思う。だけど会社の前でそんな話はさすがにまずいと思った。会社の連中のなかには萌と俺のことを知ってる奴もいる。迷ったが結局車に乗った。」
「・・・・・。」
もういいや。喋りたいだけ喋ればいい。私には何も聞こえない。何も。
「・・彼女がマンションに向かおうとしてたのでそれはできないと言った。でも運転しながら泣きだして・・、どうしても昔の自分たちを思い出してくれって。・・ゴメン、正直気の毒になってしまった。俺の気持ちは変わらない。だけど、お互い納得して別れたわけじゃなかった。だから」
「へえ!じゃあんたは同情すれば恋人がいてもよその女の所へ平気で行くんだ。」
つい怒りにまかせて言葉が出てしまう。
「平気じゃないさ!どうしてわざわざ恋人を泣かせることを俺がしなきゃならないんだ!」
「じゃあ何故行ったのよ!何故彼女を泣かしても私を泣かさない方を取ってくれなかったのよ!しかも夜勤だって知ってて!コソコソコソコソ!私が昨日夜勤じゃなかったらどうしたのよ!それでもあなた行った?」
・・!!志生が言葉に詰まる。今度は私が攻撃する番だ。どう言えば相手に何も言えなくさせるほどのダメージを与えられるかだけに頭が回転した。
「都合のいい話よね。悪いのは全部彼女と、昔無理やり別れさせた周りだって言ってるんだよね?俺はただ同情しただけ?ずいぶん偉そうな話よね。ついていけば脈があるかもって女は思うわよ、そうでしょ?よく考えなくてもわかることよ。何が会社の前だからよ。あんたが話すこと無いって言っちゃえば済むことでしょう。全部周りのせいにして、俺は同情しただけ?笑えないくらい寒い冗談よねえ。」
「・・・・・。」
志生は俯いていた。私は思いつくままに言葉で彼を殴り続けた。でも、間違っていない。私は悪くない。絶対に!
「あんたのやってることはねえ、結果がどうであれ、誰も幸せにしてないのよ!私をここまでひどい女にさせて、あんたの言ってることが本当なら富田って女のことも結局傷つけただけじゃない!あんたのしたことは、そういうことよ。誰もいいこと無い、誰もいいことなんてならない、あんたが自己満足した以外は!!」
叫ぶだけ叫んだ。私の言葉に志生は絶句していた。私の言ったことは間違ってはいない。決して間違ってはいない。・・・志生を地の底沈めるくらい傷つけた以外は。