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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第30章―過去までの距離その5―

 8時ごろになると、今日の日勤者が来始める。そして、みな私の顔を見て驚いた。

「暁星、どうしたの?その顔。」

患者さんは気付かなくても、同僚は気付く。仕事でバテた顔と、別の理由で疲れた顔。もちろん言いたくない。

「・・なんでもありません。ちょっと疲れただけで。」

と、私は適当に流した。私はまだ周囲に穂村さんとのことを話してなかった。正式に結婚が決まった後でいいと思っていた。患者さんとくっつくのは割とよくある話なので珍しくも何ともないのだが、実は私は周囲に

「自分は絶対患者さんと恋愛はしない。」

と公言していたのである。だから私と志生のことは病院はもとより、病棟の誰も知らなかった。

「あれは泣いた顔だよね。」

と陰口を叩く後輩の声が聞こえた。でもそんなことは気にもならなかった。そんなことより、今日どうしよう・・・。志生に逢いたくない。でも逢って本当のことを聞きたい。この胸の鉛が私の取り越し苦労だったらどんなにいいだろう。だけどそれはない。絶対。

 ふとそこで疑問が生じる。ゆうべあの女性(ひと)といたのなら、どうして今日志生は普通に(嘘をついて)私と逢おうとするのだろう。どうして私と別れる話にならないのだろう?私と結婚して彼女を愛人にするほど志生は器用ではない。ゆうべ彼女といた時点で彼女を選んだのではないのか?・・・結局志生本人に訊くしかないのか。

 

 

 アパートに戻ると自宅の電話にも留守電が入っていた。

「お帰り。お疲れさん。少し寝てから出かけても構わないよ。」

・・・・・。この人の神経を疑ってしまう。と同時に自分の疑っている神経にも。こんなにあっけらかんと話せるくらいなら、本当に友達と飲んだだけなのか?・・・いや、違う。志生は隠したいのだ。とことん昨夜のことを何とか誤魔化したいのだ。私が疑っているだろうことは志生にも予測がついている。だからこそこんな小細工を図っているのだ・・・。

 私は熱いシャワーを浴びた。全身が濡れて身体中を熱い湯が覆った。ふいに自分が大雨の中でずぶぬれになっている錯覚に陥った。泣けてきた。ただ、ただ、悲しかった。

「どうして?・・・どうして・・・?」

それしか言葉が出てこない。私はシャワーの雨に打たれてひたすら泣いた。


 結局私はシャワーから出てすぐに志生に電話した。呼び出し音のあと、すぐに志生が出た。

「もしもし。おはよう。お疲れ。」

いつもの志生の声に多分聞こえた。でもわかってしまう。明らかにこちらの出方をうかがっている。

「・・・・・。」

「萌?」

その、萌?の声に緊張が滲む。私はそれ以上こらえきれなかった。

「・・・どうして嘘つくの・・・?」

「・・嘘って何が?昨日は本当に友達の家に・・・、」

「どうして嘘つくのよ!!」

「・・・・・・。」

志生はそれ以上何も言わなかった。”これで確定。”私は心の中が真っ黒い鉛になっていくのをさっきよりさらに感じていた。

「・・ごめん。萌、聞いてくれ。もう終わったんだ。」

「何が終わったのよ!何を聞くというのよ!」

自分でも声がどんどん荒ぶっていく。自分が怒鳴っているのに誰か別の人が大声を出しているみたいだ。

「萌、萌。ちゃんと逢って話そう。」

「逢う必要ないわ!まだ式場にも行ってなくてよかったわ。正式な結納もしてないし、婚約ったって口先だけで。」

「・・俺と別れるって言うのか。」

「そうよ!あなたが望んだことでしょう。」

「誰が望むか!」

「ならなぜあのひとの所に行ったのよ!人が夜勤の時にコソコソと!」

「・・・・!」

「どうしてよ・・・、どうして!」

私はそこで耐えきれず泣き出し、嗚咽に変わった。志生も黙ってしまった。長い沈黙が二人に降り続いた。ただ私の嗚咽する声だけが響いていた。どこまでも出口のない迷路で迷子になり、途方に暮れている子供のように。やがて志生が振り絞るように言った。

「今からそこに行くよ。いいね。」

「・・・・・。」

志生は私の返事を待たず電話を切った。

30分くらいしてアパートの駐車場に志生の車が留まる音が聞こえた。もう、エンジン音だけであの人の車だとわかってしまう私。でも今二人の間にそびえ立つ壁の高さは、あまりに高すぎて天辺も見えないくらいだった。ピンポン。ドアホンが鳴る。玄関まで行くもののドアを開けるのが怖い私。

「・・話をしよう、萌。」

静かに志生が言う。その声はつい昨日の夕方まで、この世で1番親しく愛しい声だったのに、まるで見知らぬ他人よりさらに他人の、いや、他人ですらない人の声に聞こえた。ピンポン。もう1度鳴る。私は静かにドアを開けた。目の前に顔色の悪い男が立っていた。一瞬この人誰?と言いたくなるような男。でも、その男の顔を見るなり、私の中に猛烈な怒りが込み上げてきた。自分でも抑えることのできない怒り。のど元まで突き上げる炎。

 そして修羅場が始まった。


























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