第3章―静かな寝顔が私を救う―
コンコン…と、音を立てないように、でもノックだとはわかるように、腹痛の彼の部屋に出向いた。静かにドアを開け、懐中電灯の光を下に向けながらそっとベッドに近づいた時…“あ、顔見た”。
そこには本当に安堵の寝顔があった。寝息一つ聞こえなかった。完全な静けさだった。まるで世界に私と彼しかいないような錯覚がした。
やっと眠れたか。やれやれ…と私もホッとした。と同時にあまりに静かなので、“…生きてるわよね”と不安になった。そうっと指先を彼の口元に寄せる。確かに息遣いがあった。
“あぁよかった。”彼の腹痛は尿管結石の可能性が高い。普通は尿管結石は死に至るような病気ではない。それはわかっている。だけど、あまりに彼の寝顔が美しく静かだったので、まるで永遠に目覚めないような気がしてしまったのだ。死んでるように…と私は先ほど言ったが、というよりは目覚めないと言った方が感覚が近いかもしれない。
私はしばらくじっとそこに佇んで、その静かな寝顔を見つめてしまった。さっきまで、ほんの少しだけど彼にたいして面倒くさい気持ちがあった。でもすべて飛んでしまった。
…なぜだろう。なぜだかずっと彼を見ていたかった。なぜなのか自分でもわからない。この感情はどこからくるのか。
――私はのちに知る事になる。この感情、この感覚が『一目惚れ』という事を。
ずいぶん長く彼の部屋にいた気がした。でも多分3分もなかったと思う。
「やば。他の患者さんもあるのに。」
ともあれ一安心だった。私はまた音が出ないようにゆっくりとドアノブを回し、あまりドアを開けないようにして、わずかな隙間に身をよじらせて廊下に出た。そして初めてきちんと名札を見て、彼の名前を確認した。『穂村志生』
…なんて読むんだっけ?ちょっと考えたが思い出せない。まぁいいや。カルテを見ればわかる。
他の部屋も特別異常はなく、みんなぐっすり眠っていた。全部の部屋を回り終わって私はナースステーションに戻った。…3時半すぎ。フー…、ため息が出る。今すぐ仮眠に入っても、5時には起きて今朝の採血やら検温やらの準備をしなければならない。ある程度は支度したが、最後の確認は大切なプロセスだ。このまま起きていようか。
ふと思い付いてあの彼のカルテを見た。『穂村志生』…ホムラシキ?シキってちょっと変だよね…、ユキオかもしれない…。振り仮名を見た。それは私が想像してなかった名前だった。『ホムラシオ』…しお?シオ?って…あの塩?いや、字がちがうか。ともかく変わった名前だ。忘れにくい。インパクトがある。
「ふぅーん…」
私はカルテに記録をつけ始めた。『3時の巡視。ようやく腹痛治まったのか安眠している様子。訴えなし。』
彼の看護記録、そして他の患者の記録も書き終えると、私はナースステーションの奥にある仮眠用ベッドにいきゴロンと横になった。…疲れた。でも眠れないかも。そう思いながらも頭の中が透明になっていく。…眠れるかな。今日は大切な日。私はひとりになるんだ。もう、誰かに寄り掛かる人生とはさよならだ…。
朝の検温も穂村さんの部屋から行ってみた。彼はまだ蒲団を頭からすっぽり被り、身体を折り曲げて眠っていた。
「穂村さん…おはようございます…起こしてごめんなさい…熱を測らせて下さい…。」
小さい声で呟くように話ながらもすばやく腋下に体温計を入れる。
「あ…すみません」
彼が目を醒ました。でもまだ半分眠っている感じだった。
「お腹痛みますか?」
なるべく事務的に聞く。腹痛の話は彼に夜中の座薬を思い出させるはずで、それは多分ストレスをかけるからだ。
「えっと…今は治まってるみたいです。」
彼は目を完全を開けようと努力しているようだった。
「まだ寝てていいですよ。」
もう一度私は事務的に言った。
ゆうべのあの寝顔が一瞬脳裏をかすめる。目を見開いた彼の顔を、なんとなく知りたくなかった。どうしてかわからないけど、あのわずかの静かな時間が、今日の私を勇気づけてくれていた。あの人と別れる決心をした私を。