第26章―過去までの距離その1―
今思うと、あの時志生と別れた方がよかったのかもしれない。そうしていたら、今の辛さはなかったのかもしれない。もっとはっきり言えば志生と知り合わなければよかったのかもしれない。でも、あの時はこんなことになるなんて思ってなかったし、そもそも過ぎた時間は戻らない。どうにもならない。時間は悲しみを癒す1番の特効薬だけれど、事実を残すという意味では果てしなく救いようなく残酷だ。
その日私は志生の会社の前で彼の帰りを待っていた。私が休みだったこともあるけれど、彼が、紹介したい人がいる、おそらく仲人を頼むことになる人だと言って、ただそのかたが多忙極まりなくてゆっくり時間をとるのは次回ということで、とりあえず私の顔を見たいとのことだった。
夕方5時。サイレンが鳴り作業の終わりを告げる。志生が1日会社にいることは1ヶ月に2〜3日くらいだそうだ。出張の打ち合わせや報告などの時だけで、他はほとんど電話やパソコンで済ませているようだった。しばらくすると向こうから志生が一人の男性を連れながらやってくるのが見えた。私はあわてて車から降りて背筋を伸ばした。目があったので深々と頭を下げる。
「萌、こちらが俺の上司で高峰部長。部長、婚約者の暁星萌さんです。」
志生が言ってる間にその人は
「あんたか、穂村の相手は。そうかそうか。」
と、親しく手を出してくれた。
「あ、暁星萌です。初めまして。」
私はその温かい手を両手で握りながらまた深々とお辞儀をした。
「ごめんなぁ。こんなところまで来させて。でも週末は家にいるのが少なくてな。」
優しそうな、でもはっきりものを言う、凛とした人柄を窺わせる風情。50代にもうすぐ入るくらいだろうか。
「こちらこそ。お忙しいんですね。」
「忙しいと言っても・・」
志生が目配せをする。
「そうなんだよ、仕事なら言い訳もカッコいいんだが。」
高峰さん(あえて部長は省略します。私の上司ではないので)も苦笑いしながら頭を掻いている。
「?」
「部長は釣りが趣味なんだ。」
「ああ、そうなんですか。」
「穂村、それは違う。俺にとっては釣りが本職だ。仕事は趣味。」
「これだから。」
志生と高峰さんは付き合いが長いのだろう、上司と部下にしては打ち解けあっている仲のようだった。
「だから週末は家にいなくてな。でもあんたの顔は見ておきたかった。穂村から話を聞いた時嬉しかったからね。看護婦さんだって?」
「はあ、一応。」
「一応じゃないだろう。まあ、また色々打ち合わせもしなきゃいけないね。来月にでもうちに来なさい。女房にも会わせるから。」
「はい、よろしくお願いします。」
「それじゃあ。」
高峰さんは言うだけ言ってまた会社へ戻っていった。志生が
「面白い人だろ。でもすげえいい人だよ。あの人の下にいる俺は幸せものさ。」
「うん。素敵な人ね。」
「もう少し待てる?あと15分もすれば終わる。」
「いいけど、車あるでしょ?」
「そんなの、停めておけばいいよ。今日萌んちに泊まるつもりだし」
「そうなの?やだ、散らかしっぱなしよ。それなら先に帰って片づけなきゃ。ご飯も支度してないよ。」
「いいよ、飯は外で食べよう。とにかく待ってて。」
そう言うと志生は返事をする間もなく会社へ走って行った。・・しょうがないか。もういいや。成り行きにまかせよう。私はまた車に乗り込み、持ってきた本の続きに戻った。
気がつくと私の車の少し前の方にもう1台車が停まっていた。ベージュの小さな車。女性が乗っている。”どなたか迎えに来たのね。”
20分くらい経った頃、志生が姿を見せた。向こうから歩いてくる。私はエンジンを入れて彼を迎える準備をした。・・・・ところが。彼は私の前に停まっている車の方を見て動揺した表情になった。そしてその車のほうに近づいていった。“え?何?あの車の人、志生を待ってたの?””誰なの?”
その途端、先日の彼のお母さんが言った言葉が頭を貫いた。
「やっとまともな人を連れてきた。」
・・じゃあ、このひとが・・・。女のカンというのは前後なく、理由なく、根拠もない。でも大半は的を得ている。私も、その時の自分のカンに迷いがなかった。・・・・志生の昔の女だ。まちがいない。
志生はその車の人と2,3言交わしただけで、すぐこちらの方へ歩いてきた。その車もそのまま発進した。
「お待たせ。」
何もなかったかのように志生が助手席に乗り込む。でも明らかに動揺しているのが分かる。心ここにあらずか。そして、全身で“何も訊かないでくれ。”と言っている。でもさすがの私も訊かない訳にはいかない。あれを見て何も訊かないのも不自然だ。私はできるだけ普通の声で、普通に訊いた。
「あの人どなた?」