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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第25章―ワンピースの1枚もなく、過去からは逃れられない―

志生と萌は結婚に向けて動き始めました。お互いの親にも会いました。でも、色んな壁も現れます。物事というのはうまく進む方が珍しいのです。そして、壁というのは高ければ高いほど乗り越えた時の喜びも大きいはずです。これを読んで下さるあなたにも大きな喜びがやってきますように・・。樹歩

 そしてとうとう私が志生の家に行く日がやってきた。私は何を着て行こうかずいぶん悩んだのだが、母親のアドバイスもあり、淡い色のブラウスに同系色のスカートにした。この時初めて気がついたのだが、私はワンピースの1枚も持っていなかった。1枚くらい買っておいてもいいかとも思ったのだが、母は反対した。

「買ったとしても今回限りじゃもったいないわよ。」

確かにそうだった。普段はGパンが多くて,スカートだって数えるほどしか持ってない。そんなだから滅多にワンピースなど着ない。だからこそ今まで必要性もなく結果1枚も買うことがなかったのだ。

「結納は着物を着てほしいしね。」

と母は言った。私は一人娘だから親を寂しがらせることはわかっていた。何故だか今さら、いづれ結婚して家を出るなら、何もひとり暮らしをすることもなかったかなと思う。

「・・ごめんね。いつも一人で勝手に決めて。」

母は

「何を今さら。・・穂村さん、いい人じゃないの。お母さんは賛成よ。とにかく今日はきちんとご挨拶して失礼のないように頑張るのよ。」

と言った。私を見ずに。そんな母の後ろ姿が小さく見えた。




 志生の家は私が想像していたよりこじんまりした家だった。玄関で志生のお母さんが声だけで迎えてくれた。

「今手が離せないの。あがってもらって。」

ええ?なんで?約束の時間はこの時間なのに・・。今日都合悪かったのかしら?

「萌、あがって。」

「お邪魔いたします。」

わざと大きめの声で言う。どこにいるのかわからない志生のお母さんに聞こえるように。8畳くらいの居間に通される。そこには志生のお父さんがいた。

「いらっしゃい。穂村です。」

「は、初めまして。暁星萌と申します。」

緊張感最高潮、戴帽式(たいぼうしき。看護学校で行われる儀式で、この日に初めてナースキャップをかぶり、看護婦になる決意を新たにする。)の時でも看護婦国家試験の時でも、こんなに緊張しなかったと思う。志生に促され、用意されていた座布団に座る。

「大丈夫?」

志生が笑いながら聞くが、返事もままならない。この前志生もこんな気持ちだったのだろうか。とてもそうは見えなかった。年の差なのだろうか。そういう問題か?ガチガチになって正座していると、注目の女性が入ってきた。

「ごめんなさいね、ちょうど果物を切っているときだったから。」

志生のお母さんは志生の体形からはちょっと考えられないくらい体格が良かった。志生が細い(入院した時のカルテでは身長173センチ、体重52キロだったと思う。あまりにスリムなのでみんなびっくりしたから覚えている。)ので、てっきりそういう家系かと思っていたが勘違いだったか。

「初めまして。暁星萌と申します。よろしくお願いします。」

「こちらこそ。さ、どうぞ。ひさしぶりにパウンドケーキ焼いてみたの。」

志生のお母さんはそう言ってケーキと果物の載った皿と、コーヒーカップを出してくれた。




 帰りの車の中で志生は

「お疲れさん。」

と声をかけてくれた。

「はあ〜・・。緊張したぁ。」

「そうだろ。でも萌は気に入られたよ、うちの親に。」

「そお?だといいんだけど。」

確かに場は和やかだった。ただ・・。志生がちょっと席を外した時にお母さんが気になることを言ったのだ。

「やっとまともないい人を連れて来ると思っていたのよ。」

私がどう解釈したらいいのかわからずキョトンとしていると、お父さんが

「おい、変なこと言うな。萌さん困ってるだろ。」

とたしなめた。一瞬空気が固まった。そこへ志生が戻って来て別の話になった。

 どうしよう・・。さっきのことを言った方がいいのだろうか。私と知り合う前に何かあったのだろうけど、訊いてみた方がいいのだろうか。でもそれは多分志生に言いたくないことを強いることになるんじゃないか。そんな気がした。そして私も知らない方がいいような気がした。思い出に嫉妬しても勝てない。

「さあ、忙しくなるよ。」

「?」

「結婚式の準備。」

「ああ、そう、そうね。」

「そうだよ。俺たちは休みが合うのが限られてるからさ。」

「うん。」

返事はしたもののさっきのことの方が気になり式の準備と言われてもピンとこない。私のアパートに向かう間、志生の言葉に生返事ばかりしていた。というより、彼の言葉もろくに耳に入ってなかった。そうこうしているうちにアパートの前に着いてしまった。

「送ってくれてありがとう。」

「いや。今日は疲れただろ。しっかり休んで。」

「はい。」

まだ夕方だったが志生を部屋に誘う気分にならなかった。このままいると訊かない方がいいと決めたことも訊いてしまいそうになる。ドアに手をかけた時、志生が肩に手をかけた。振り向くともうそこに彼の唇があった。永い永いキス。さっきの気持ちが揺るぐ。”ねえ、もう少しだけ一緒にいたいの。”・・・でも言えない。

「おやすみなさい。」

「おやすみ。今週は木曜には戻るからね。連絡するよ。」

「今週はどこ行くの?」

「福岡。明太子買ってくるよ。」

「うん、待ってる。」

そして志生の車が走り出した。なんだかホッとした。余分なことを言わずに済んだ。人間は誰でも過去から逃れられない。自分のだけでなく、大切な人の過去からも。それは私だけでなくて、志生もそうだし、これを読んでいるあなたも同じなのだけれど。




















































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