第23章―疑いのない人生―
「来週から出張仕事に戻るんだ。」
遅めの朝食を食べながら志生が言った。喫茶店のモーニングサービス。冷凍ご飯しかなくて、もちろんパンもなかったので私たちは外に出たのだ。彼氏が泊まるというのにそんなことも気がつかなかったのを私は恥じたのだが、志生は別段気にする様子もなく、むしろフォローしてくれた。
「なんでも気が回ったら男がいるのに慣れてるみたいだよ。」
「じゃあ来週からこの辺にいないの?いつ帰ってくるの?」
「明日朝1番の新幹線に乗る。大阪。金曜日の夕方戻るよ。」
「大阪・・。」
急に心細くなる。今だって週1くらいに逢っているのだからサイクル的には変わらないのに。近くにいないだけでこんなに不安になるなんて。子供じゃあるまいし。
「お土産買ってくるから。」
「そんなのどうでもいいから無事に帰ってきて。」
私が神妙な声を出したので志生はちょっとびっくりしたようだった。
「萌。月曜に出かけて金曜には帰る。」
そんなのわかってるよ、と言いたいのをこらえる。そういう問題じゃないと言っても通じないだろう。私も頭ではわかってるのだ。日数では大した話じゃない。でも、逢おうと思えば逢える所にいるのと逢えない距離の所にいるとでは、気分的に違う。女はそういう些細なというか、つまらないところに妙に神経をとがらせる。志生は一瞬黙ったが、私の言いたいことは何となく察したようだった。
「萌、あのね、不安にさせるなら謝る。でもこれが俺の仕事だ。もう4年近くやっている。今の所移動する話もない。」
「・・・・。」
「わかってほしいとは言えないけど、慣れてほしい。俺たちは結婚するんだから。」
そうだった。私はこの人と結婚するんだ。今朝話を聞いた時はただ嬉しくて舞い上がっていたけど、今の話の方がリアリティーがある。
「・・うん。ごめんなさい。」
「俺も寂しいけどね。俺がこっちにいる土日に萌が仕事だと。」
「本当?」
「それはそうだよ。でも、萌だって仕事大事に思ってるだろ?俺がいるから休めとは言えない。」
確かにそうだ。月に1度くらいなら週末休みの希望を婦長に言えるけど、2度3度とはいかない。というより毎週土日どちらかを休みにするのも不可能だ。パートならともかく。
「うん。ごめん。」
「謝ることない。君が一生懸命仕事をしていることにどれだけ勇気づけられたか。」
「え、そうなの?」
「そうだよ。看護婦ってテレビでよく特番みたいなのやってるじゃん。密着24時間とか。俺、あんましああいうのみたことないけど、たまに見ると本当に大変そうだなって思ってた。でも、どこかで造られてるんじゃないかって気もしてたんだ。だけど実際自分が入院してみて、ああ、本当に看護婦って大変な商売だなあって思ったよ。すげえ忙しいよね。気も使うし。だけど患者にはいつでも笑顔でいた。優しくしてくれた。仕事なんだ、営業スマイルなんだと思っても、やっぱり救われたよ。」
「そお?確かに気は使うし、いつでも表情には神経使うようにしてるけど、そんなに意識してないのよ。」
「そう、萌はそうだった。自然に対応してくれてた。この子は当たり前に俺のこと心配してくれてると思った。」
「うーん、でも、志生にはちょっと特別だったかも。」
「そおか?」
「それはそうよ。今だから言うけど、毎日あなたの点滴やるためにけっこう先回りしたのよ。他の人にやらせたくなくて。だって、理由がないとあなたの部屋に行けないじゃない。」
「へえ、そうだったんだ。だから萌が日勤の日は萌が来てくれてたのか。他の人の時は休みか夜勤だとは思ってたんだけど、そうだったのか。」
「そうよ。」
「じゃあもっと早くうぬぼれてても良かったのかあ。石が出るまで待たなくてもよかったかな。」
「・・そうかも。」
私たちはお互い照れ笑いをした。最後のコーヒーを飲み干すあたりで志生は話を元に戻した。
「まず、君の両親に会わせてくれ。うちはあとでいい。」
「・・はい。私も志生のご両親に挨拶しないとね。」
「一応話してあるけどね。」
「何を?」
「結婚考えてる人がいるって。」
「そうなの?」
なんと気の早い。プロポーズの前に親に話したのか。私が断ったら(ありえないけど)どうするつもりだったのか。ちょっとあきれちゃう。でもそういうとこもカワイイけど。
「昨日は君のうちに泊まるって言ってきたよ。で、たぶん近いうちに紹介することになるからって。それでわかったと思う。」
はあー。思わずため息。嫁入り前なのに男を泊めるような女と思われてなければいいが。志生にそのあたりを聞いてみたくなったが、聞いたところでもはやどうにもならない。成り行きにまかせよう。
「だから君の方もなるべく早く親に話をしておいて。土日ならいつでもそちらの都合に合わせるって伝えて。」
志生の、少し急かすような、でもはっきりした言い方に、私は素直に嬉しかった。
「うん。・・あの、あのね、志生。」
ん?という顔。
「ありがとう。よろしくお願いします。」
私は本当に素直にそう言った。この人となら、私はずっと幸せでいられる。この人はずっと私を守っていってくれる。
「・・こちらこそ。」
志生は優しく微笑んで、煙草に火を付けた。照れているのが分かった。この時志生は29歳、私は24歳だった。これからの自分の人生に何の疑いもなかった。