第141章―まぼろしの跡―
萌の葬式が済んでしまっても、あの小さな身体がただの白い粉の塊になってしまっても、どうしても萌の死を受け入れられない自分がいた。
色とりどりの花に飾られた黒い縁取りの写真には、白衣姿でほほ笑む彼女の笑顔があった。知紗子の時とは全く違う気分だった。葬儀の時も萌の母親は気が狂ったように泣き崩れ、弔問客の同情を誘い、誰もがその理不尽な事態に現実を受け付けられないムードだった。俺の会社の人間も数人来ていたが、誰一人俺に声をかける者はいなく、俺も言葉はなかった。
なぜ萌は死ななければならなかったか。
なぜ萌は穏やかな顔であちらの世界に行ってしまったか。
雨の中で彼女が発見された時、既に彼女は俺と同じ世界の人間ではなくなってしまっていた。彼女の身体は遺体と呼ばれ、救急車にさえ乗せられることはなかった。頸から刺された刃物の痕からは大量の出血があり、でも夜通し降っていた雨でずいぶん流されてしまっていた。
1ヶ所のみの傷で確実な致命傷。プロのやり方に近いと警察は言い、俺も色々事情を聞かれたが、怨恨の可能性が高いということでその方向で捜査をするということだった。でもなにも手掛かりは見つからなかった。萌の部屋に誰かが入った形跡はなく、俺の所へ来るための準備をしていたのだろう、旅行カバンとそれに詰める為の荷物があった。まだ途中だったようで、カバンの中にはデジタルカメラとドライヤーが入ってるだけだった。誰も入った形跡がないくらいだから、当然室内が荒らされた様子もなかった。部屋の鍵も掛けられていた。萌が持っていた遺品はその鍵と小さな財布だけだった。財布の中身もそのまま、ずぶ濡れの彼女の洋服のポケットから出てきた。その点からも、萌が殺されたのはいわゆる物盗りや通り魔とは違うというのが警察の推理だった。
でもそれよりも俺は、刑事の一人が言った言葉の方が胸に刺さっていた。
「残忍な殺され方なのに、被害者はずいぶん穏やかな顔なんだよね。」
・・・どうやら普通人間というのは、不本意な、心の準備のない最期の時はそれなりに苦痛の表情が残るらしい。顔が歪むということだろうか。俺にはよくわからなかったが。
ただ死人を見るプロにそう言われると、やたら胸が疼いた。
・・・萌。どうして君はそんな表情で逝ったんだ?
俺はそれから名古屋へ戻り、黙々と仕事をし、時間があると実家へ戻り警察へ萌の事件の進展を訊きに行った。初めて気がついた、というか知ったことだが、殺人事件というのは俺が思っていたよりも人の心に残る時間は短いらしく、最初はマスコミやら報道やらが現場に来ていたが三日もたてば何事もなかったのように静まり返った。珍しくないことなのだ、きっと。
萌の事件は夜の住宅街での出来事であることと雨だったことなどで目撃者もいなく、1カ月経っても何も進展がなかった。
ある日俺は車に乗って会社へ用事を済ませに行き、その帰りに何となく遠回りをしてぶらぶらと車を走らせていた。そのうちに河へぶつかったが、景色が俺の憶えていたものと違っていたことに気がついた。草ぼうぼうだった河川敷がなくなり遊歩道ができている。俺は思わず車を止めて橋の上に立った。そして河の流れを見た。その途端なぜだか急に胸が詰まってきて、涙腺が弛んでくるのを俺は感じた。
萌は戻ってこない。
もう俺のもとに萌は帰らない。
その時橋の向こうから一人の女性が歩いてきた。黒いワンピースの裾が風にはためくように揺れているのがわかった。その瞬間、俺はその女性をどこかで見たことがあるような気がした・・が、彼女と眼があった時、それがなおさら確信が持てずに混乱した。
「あなた、酷い顔をしてるけど大丈夫?」
「・・・・。」
どこかで・・・でもどこで・・・。
「なんだか大切なものをなくしたって顔をしてるわ。」
彼女はそう言って俺の隣に並び、河を流れる水面に視線を移した。
「・・・私はね、私は、この世で一番愛した人が一番喜ぶものを最近プレゼントできたの。」
俺は彼女を見た。彼女も一瞬俺を見て
「やっと見つけたの。ふふっ。」
そう言ってほほ笑み、また河の方へ視線を戻した。
河は流れ、同じ流れに見えてもそれは違っている。でも同じに見える。
それはまるで幻影・・・まぼろしのようだ。
萌は確かに現実にいた。白衣を着、腹痛の俺を介抱してくれた。自分も辛い思いをしながらも俺と知沙子を見守ってくれた。そしてやっと俺たちは・・・。
俺はいつまでも河を眺めていた。いつの間にか黒い服の彼女もどこかへ歩いて行ってしまった。河は何も語らぬまま流れてゆくだけだった。
―完―
「まぼろしの跡」を最後までごらんになってくださった皆様へ
とうとう今回で最終話を迎えました。ここまでお読みくださった皆様、温かい応援をくださった皆様にこの場をお借りして深くお礼を申し上げます。
書いている中で、色々なメッセージをいただきました。萌と志生を幸せにしてほしいとか、本当に実話なのかとか。・・・・本当のことを言いましょう。実話です。少なくともある部分までは実話です。
これを書く決心をするまでに10年かかりました。書いてゆく中で私は自分の精神が病んでゆくのをひしひしと感じました。書きながら私は死者の声を聞き、そして私も気付かなかった私の声を聞きました。私はその声に抗いながらも、少しずつ自分の中の深い深い底の部分にある声に耳を澄まし、一つ一つを文字にしてゆきました。
人は残念ながら失ってから初めてその意味を知ることが多くある動物です。人に対してもものに対しても心に対しても。どうかあなたの人生になくてはならないものは大切に大切に扱っていってください。それは自分自身に対しても。だってあなたを「人生になくてはならないもの」と思ってくれている人が必ずいるのですから。
私は今日も祈ります。明日も祈ります。あなたのことを。私に人生になくてはならない花だから。本当に本当にありがとうございました。心より感謝をこめて。 H21・8・7 樹歩