第140章―畢生―
そして私は明日志生に逢う。
あの新幹線ホームで別れてから初めてだった。あの時、どんどん遠ざかってゆく志生を見ていたら、なぜかもう二度と逢えないような気がした。
志生のいない間、私は式場やら、引っ越しの手配やら、それなりに忙しい日々を過ごしていた。わざと止まらないようにしている自分がいた。わざと止まらないようにしている志生がいた。
「すぐに逢えるよ。」
あの日そう言った志生。本当は志生がこちらに戻ってくる予定になっていたけど、急遽私が名古屋に出向くことになった。不動産屋に行くためだ。二泊の予定なので簡単に荷物をまとめる準備をした。外は小雨が降っている音がしていた。
この数日、忙しくしながらもいつも頭の、いや、意識の隅にいつもあったこと。生も死も、今の私にとっては同じ線の上にある点だということ。あの人が私に教えてくれた「生きていることの尊さ」、そして「無になることでさらに有になることがある」ということ。
いつか、いつか私もそっちへ往く。それはきっと今立っている足元から一歩動いただけくらいの差しかない。でもそこに隔たる壁はとても高く、しかも厚い。そして同時に薄い。セロファン1枚くらいのものしかない時もあり、アスファルトのごとくそびえ立つこともある。
私は今これを読んでくれているあなたに、私なりに精一杯言葉を紡いで気持ちを伝えようとしている。あの頃あの人に激しくぶつけたように。泣くだけで言えなかったように。
だけどどれだけ言葉をつないでも、ありったけの形容詞を使っても、全部をそのままであなたに伝えられる日は永遠に来ないだろう。
愛していることは愛という形のないどこまでも当てにならない心を、ただ繋げてゆくということだと私は思う。刹那の間もなく、心を紡いでゆくということだと。そこには意味とか、価値とか、純粋とか、不純とか、奉仕とか、見返りとか、妥協とかはなくて、できるならば祈りであってほしい。
その人とあなたが出会ったのは沢山の偶然という必然の延長上にあっただけにすぎない、あたりまえじゃない運命だったことを知ってほしい。
できるならば許すことを術にしてほしい。私ができなかったことを。あの人ができなかったことを。志生がしてくれたように。富田さんがしてくれたように。
「君は人生に大きな花を咲かせてくれたんだ。」
今も彼の声が聞こえる。白衣に手を突っ込んだ彼の足音を私は聞くことができる。いつかまた会えた時、きっと私は言いたい。
「あなたは私の人生になくてはならない花だった。」
そして・・・明日は志生に言おう。私の永遠の人に。
それから今は遠い星になってしまった富田さんに。幸せになれと言ってくれたマスターに。いつも傍らで励ましてくれた大事な親友潤哉に。
「あなたは私の人生に永遠に咲き続ける花です。」と。
きっと言うから。いつも心の中で伝えるから。あなたが聞こえなくても。私は永遠に。
本当は何度も思った。どうしてこういうことが起きるのか。私の歩いてきた道程のどこに何の間違いがあって、またはどこに正しい意味があって、私の人生に、そしてあの人の人生にそれが起こってしまったのか。それを考える度にまるで仕組まれた罠にはまったような気持ちになり、幾度も吐き気に襲われた。
どうして人は生まれてくるのか。どうして出会ってしまってゆくのか。なぜ幸福とか不幸とかがあって、なぜ人はいつも幸福の方へ歩めないのか。誰もが幸せになりたいはずなのに。
欲しくて、欲しくて、ただ幸せや愛を欲しくて、でもその「願い」が手に入れたいという「欲求」になってしまった時、本当にそれは幸せと呼べるものなのか?本当にそれを執着ではないと言い切れるか?多分誰か他人を愛してしまった時にそれは始まるのだ。茨の葛藤。結ばれなくても結ばれてもそれは続く。誰もが自分以外の誰にもなれない。愛した人の全部を知ってるつもりでいるのは大間違いの高飛車。それは恋人でも、夫婦でも。だからこそ相手を理解しようと努力する。わかってもらおうと心を尽くす。生きている限りそれはずっと。
だから人は愛したくなるのだと思う。自分以外の誰かを慈しみたいと。その人の笑顔だけを見れたらいいと思った日が必ずあったはずなのだ。 私はきっとそれを気づく為の、またはそれをあなたに伝える為の手紙の役を何かのダイスで引いたのだ。そして彼も。
これからも私は祈り続けよう。あの人の声を聞き続けよう。
そして生きている限り、あの人の奥さんに懺悔を繰り返そう。
本当はじかに会った時話すべきだったのかもしれない。「あなたの憎むべき相手は私だ」と。その方がもしかしたら彼女も、そして私も楽だったかもしれない。“誰かのせいにできること”が、時に自分を慰め、救うことが世の中にはたくさんある。でも私にはその勇気がなかった。ついにどうしてもその勇気がなかった。蔑まれるのが怖くて・・・チャンスならいくらでもあったのに。
外は雨が降り続いて、でも私は一つ買い忘れがあったことに気がついた。明日の朝は一番の新幹線に乗りたい。きっと急ぐことになるから今夜のうちに買ってこようと思う。
こういう、こんな時さえもきっと、絶え間なくあなたへの祈りを捧げて。