第14章ー悩み尽きず、思考能力は止まるー
とうとう二人は初めての夜を過ごすことになりました。でも・・。こんな経験、女性なら大概あると思います。樹歩
部屋は思っていたほど広くもなく、豪華でもなかった。
「もっと広いかと思った。」
「こんなもんだよ。」
と、志生は笑った。さっきフロントで彼は2種類の部屋を勧められ、値段のいい方を選んだのだ。私は少し離れた所に突っ立っていたのだが、なんせこんな時間にこういうホテルに来る客はない(少なくともこのあたりでは。都会じゃわからないが)ので、彼とフロントの男性とのやり取りが筒抜けだった。
「そうなんだ・・。」
「でも、外はよく見えるよ。来てみ。」
窓辺にいる志生の横に行き外を見る。
「ほんとだ。」
私たちの暮らしている所は決して都会ではなくて、街中も繁華街というよりは商店街といったところだけど、さすがに12階(これでもこの辺りでは高層!?の方)から眺めると街の灯りが綺麗だった。向こうに海も見えた。船の灯り。
私たちはしばらく黙って外を見ていた。志生の、私の肩に置いた手の所だけが温かかった。その温かみが、そのまま彼の優しさに感じられた。・・でも、私の中に小さな鉛が生まれていた。さっきの、この部屋に入った時の
「こんなもんだよ。」
と言った志生の言葉が引っ掛かっていた。こういう部屋をよく知っているかのような・・ようなではなく、よく知っている言い方だった。自然な言い方だった。こんなホテルにちょくちょく来ることがあるんだろうか。どう考えてもひとりで来るところではない。
私の想像は一気に膨らんだ。もしかしてこの人は女性を口説くたびにこういう所を使う人なのかしら?そんな器用なことできないと言っていたけれど・・。想像の中で彼が私の知らない女性と部屋に入るのが見えた。私より美しい女性。
「どうした?何考えてるの?」
志生が肩を抱きながら耳元で囁く。一瞬ためらったが口に出すことにした。
「こういうとこ、慣れてるみたい。」
?・・何を言われているのか彼はわからないようだった。一瞬考えて、
「あ、ああそうか。」
と吹き出した。それを見てちょっとむっとして
「だって・・。」
私は俯いた。何故か別れた彼のことを思い出す。・・・私とあの人はこんな素敵なホテルに来ることなんてなかった。私たちはいつも高速インターのおもちゃが散らばったようなラブホテルに行っていた。それさえ彼の車の時は誰かに見られてはしないかと神経をピリピリさせて。私の車で行く時、彼は気が楽そうだった。そういう顔がどれだけ女を傷つけているかなんて気がつくはずもなかった。嫌だ、どうして今こんなこと思い出すのだろう・・。志生には関係ないのに。まったく関係ないのに。
「なるほどね・・、萌はするどいね。」
くすくす笑いながら志生は言った。その笑い声で、私の頭から昔の幻影が遠ざかった。
「何で笑うの?」
そう言ったかどうかで唇を塞がれる。何もかもが消えていく。すべての音も遠くなる。志生、志生、志生・・・・。
そしてゆっくり唇が離れる。志生は私を抱きしめ髪をなでている。今日夜勤明けでよかったとつくづく思う。日勤でシャワーも浴びれずこんなことされたら、臭いが気になって仕方ない。看護婦の仕事は決してきれいな内容ではない。色んな人に触れる機会も多い。・・・現実的だなあ私。
「俺の仕事なんだ。」
唐突に彼がつぶやく。
「仕事でホテルやマンションに行くんだ。」
そうだった。その話だった。
「仕事?」
彼は手を離して椅子に座ると煙草に火を付けた。その一部始終の指の動きを追いながら、私も椅子に腰かける。そしてバッグから煙草を出す。そう、結局私は正直に煙草を吸うことを白状(別に隠していたわけじゃないから白状という言い方も変だけど)した。そしてたいがいの女がそうであるように、店に入って喫煙席がある無いにこだわるのは私の方だった。
「俺の仕事、話したよね?」
「システムキッチン」
「うん。俺は修理屋なんだ。つまり、客から苦情が来たり修理の依頼が来たら客の家に行って対処するんだよ。その中にはホテルもある。今は退院してきたばかりだから現場じゃないんだけど、来月からはまた全国飛び回りさ。」
「え、そうなの?どこかに行ったきりなの?」
「いや、場所にもよるから。2、3日のこともあれば1週間くらいも。」
「じゃ、仕事先でこういうとこ泊まるんだ。でもひとりじゃ広いよね。」
「違う違う、こういうとこは仕事の現場!泊まるのは、すっげー粗末なビジネスホテルだよ、決まってるじゃないか。」
「あ、そうなの?」
「あははは、面白いなあ萌は。」
志生はくすくす笑い出した。それを見てたらなんだかおかしくなって私も笑いだした。もちろんさっきの鉛はどっかにいってしまった。志生は笑いながら立ちあがった。どきっとする。でも私の緊張をよそに、彼は冷蔵庫からビールを取り出して飲み始めた。
「萌も飲む?」
「うん。」
私は実はすでに十分酔っていたし、この後のことを考えるとこれ以上はやめた方がいいなと思ったが・・結局付き合うことにした。でも、またもや女の面倒くさい悩みが始まった。・・・やば・・・下着の替えもないし、まあそれは夕方取り替えてるからあきらめるとして・・化粧を落とすクレンジングもないや・・・。ああ・・私のバカあ・・、よく考えればこういうこともあり得るってどうして思わなかったんだろう・・。
「またなんか考えてるでしょ?今度は何?」
うっ、・・今度は口にできない。えっとえっと・・、
「トイレ行こうかと思って。」
言うと同時に席を立つ。初めてのデートの時には”トイレ”の一言がなかなかできなかったが、なにせ会う度にアルコールなのでトイレの我慢ができなかった。それに少し時間が空くと志生の方から「トイレ行った方がいいよ。」と切り出してくれた。それでとても気が楽になったのだ。余談だが、これを読んでいる男性は、女性が自分が思う以上にトイレを我慢していることをぜひ覚えていてほしい。そして女性と一緒の時いくらなんでもトイレが遠いなと思ったら、何気に勧めてあげるといい。絶対印象が良くなること請け合い!ただ、言葉は上手く使うべし。ここでは省略。私は今クレンジングで頭いっぱいで、しかも酔っ払っていて・・つまりこれ以上は思考能力が働かない。
そしてトイレに行きながらドレッサーのアメニティグッズを確認して胸をなでおろした。メーカーこそ違っていたけれど、そこにはクレンジング以下、基礎化粧品が一通り揃っていた。「これでとりあえず大丈夫・・。」
そして深く長い夜が来た。