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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第139章―その一歩の先に・その2―

 その晩、志生は私たちが初めて夜を過ごしたホテルの部屋を取っておいてくれていた。

「余分なお金だったんじゃないの?」

と言う私に

「いつも萌の部屋で悪いと思っていたんだ、これでも。それに、さっきも言ったけど萌からのメールが嬉しかったから、少しでも特別っぽい夜にしたかったんだ。」

志生はそう言って私の肩に手をまわした。



 その部屋はあの日と同じ部屋ではなかったけど(部屋の番号は忘れてしまったけど、窓から見える景色が違った)、ちゃんと私をあの日に連れ戻した。

 あの頃は本当に何も知らなくて、ただ自分が幸せになることばかり考えてた。あの人が私を守る為にどれだけ努力してくれていたかを思うこともなかった。その結果彼は帰らない人になってしまった。

 彼が生きていたら?もっとちゃんと話しあっていたら?・・・・何度その問いをしただろう。幾度それを思って泣いただろう。もう決して声の届かない人に。そして自己中心的だった自分に。

 それでも。それでも私は穂村志生と出会えたことを幸運だったと思う。あの美しい寝顔に魅せられたことを運命だったとするならば、私はやはり抗うことなどできなかっただろう。恋というものが何の用意もなくて訪れるということを初めて知ったのだ。まさに、恋はするものではなくて堕ちるものだと。本当に、何の前触れもなく。そして富田知紗子という女性の存在。志生を愛して愛して逝ってしまった人。あんなに情念の籠もった愛し方を私は知らない。それは時に誰かを傷つけるし自分も傷つく。彼女はそれでもなお志生を求めた。志生を愛していた。自分に纏わりつき、逃げようにも絡みつく(しがらみ)を懸命に振りほどこうとしていた。強い、強い情熱。彼女はそれを私に、たとえ互いに相容れ合えない関係だったとしても確かに教えてくれたのだ。

 沢山のことが次々と映画の予告編の断片のように私の記憶のスクリーンに浮かんだ。浮かんで消えて、また浮かんで消えて・・・その繰り返しが続いた。温かい志生の腕の中で私のそれは続き、やがてそれが消えうせ、次に快楽の海に放り出される。ただひとりの人とどこまでも果実に泳ぐ。


「もう一人じゃないよ。」

志生のその囁きに自然に涙が流れる。無意識のうちに泣いているのだ。罪も十字架も背負いながらも、でも生きてる。私と志生は生きている。生きてる限り、生きてることを意識して生きてゆきたい。今こうして生きていることがごく当たり前なんてことはないのだ。明日どころか、すぐ先のことだってだれにもわからない。でも、でも、私は生きている。今生きていて、確かに存在があって、宇宙で一番愛してる人とお互いだけをわかちあっている。

 きっと、きっとこの気持ちが、この気持ちを持てることが、倖せという名詞になるのだ・・・。




 あわただしく退職願を出した私だったが、思いもかけずに

「いつ提出するかと思ってたのよ。よかったわね。」

と、婦長をはじめ、みんなから祝福を受けた。そして来月末(厳密には有給消化があるのでもっと早い時期の退職になる)の正式退職が許可された。

“この病院にもあと数週間”・・・・ちょっと淋しかったがまたひとつ心の踏ん切りがついた。


 それから私は志生と一緒に久しぶりに志生の実家へ行った。玄関先で迎えてくれたお母さんは

 私の顔を見ると深々と頭を下げた。私もあわててしまい、

「ご無沙汰していてすみません。」と言った。

「とんでもない、あなたには本当につらい思いを・・・。どうか志生を許してやってください。私がもっとちゃんと止めればよかったんですけど・・。」

あ、そうかと思った。彼女は富田さんのことで私に詫びているのだ。

「違います、どうぞ頭をあげてください、あの・・。」

戸惑いがちに顔を上げるお母さんの目を見て私は言った。

「いいんです。あれはあれでよかったんです。ちゃんと二人で相談し合って決めたことでした。だから大丈夫です。こちらこそ、お母さんに説明できなくて申し訳なかったです。」

私のその言葉を聞いて彼女はほっとした顔をした。

「ああよかった。」

改めて志生の実家の玄関をくぐる。いよいよここの家の人間になるのだ。


 そしてとうとう志生が名古屋に行く日が来た。

「向こうでアパート捜しておくよ。今のところは独身用だから。」

と、志生は言った。

 本当はすごく淋しい。なにも言いたくない。何か一言言うと涙があふれそうだ。

志生はまた私の気持ちを察してくれてそっと私を引き寄せてくれた。

「色々準備があるだろ?萌ももうすぐ退職だし、式場とか決めておいて。俺は土日休みだから、萌が自由になったらすぐ帰るよ。」

コクンとうなずく。

「とりあえず2週間後でいいかな??」

コクンとうなずく。

 少し風の中に温かみを感じ始めた駅のホーム。はじめて志生を迎えに来た日を思い出す。

「早く帰ってきて。」

それを言うのが精一杯だった。志生はにっこりして私の髪を撫でた。

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