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まぼろしの跡  作者: 樹歩
138/141

第138章―その一歩の先に・その1―

 もう何もかも受け入れて、その上でなお流してしまおう。

もうこの身に起きたことは全てこの身から出たものの結果であって、誰のせいでも何かのせいでもましてや運命のせいでもないのだから。

 私は私にしかなれないし、私でしか生きてゆくことはできないのだから。私が私として生きてゆくためにはどうしてもどうしても志生なしではいられない。志生を必要だ。

 それを頭でわかっていても、心で認められなくて、それは多分彼も同じ部分があって・・・、私たちは短い時間の間にずいぶん多くの経験をしてしまった。でもそれでもなお、互いを求める気持ちはとうとう(つい)えなかった。だから・・・。

「きっとあなたの望む返事が出来ると思う。」

 そうメールを送り、志生と待ち合わせた店に向かった。何度も行った居酒屋だったけど、今夜の私は違う店に向かうような気持だった。まるで初めてデートをするような感覚。これから繰り広げられるであろう恋愛ドラマの始まりを待ちわびている気持。私は以前初めて志生の実家を訪ねた時に来ていたスカートを引っ張り出し、優しい色のカットソーを選び、いつにもまして念入りに(でも厚くならないように)化粧をした。

“キレイになって、私。少しでもキレイになって。”



 もうその時点で私はあの人の奥さんのことなど全く頭になかった。

“偶然が重なったんだわ・・・”

あの人と出会いも、恋愛も、あの酷い別れも・・・もとは偶然がおこしたものだった。その偶然は必然だったかもしれないけれど・・・、でも今さらどうすることもできない。どこへ行くこともできない。

“・・・ごめんなさい・・・”

小さくつぶやく。あの人は私が幸せの階段を上ることをどう思うだろう。安心してくれるだろうか。妬ましく思うだろうか。

「君は僕の人生に大きな花を咲かせてくれたんだ」

そう言ってくれたあの人。今も私を支えるあの言葉。いつも優しくほほ笑んでくれたあの人。私を看護婦という道に歩むきっかけを与えてくれた人。

“忘れないから。ずっと一緒だから。”

鏡を見る。私はこうしてずっとずっと永遠に心の中で祈りを捧げ続けてゆくのだ・・・。



 志生は店の前で待っていた。

「先に入っていればいいのに。」

そう言うと

「メール見たから・・。今夜は特別。」

と言って小さく顔をほころばせた。そしてちらっと私の服装を見た。

 その視線で彼が喜んでくれているのがわかる。そう、今夜はちょっとだけ特別。うんと特別!・・・と言いたい気もするけれど、やっぱり今までのことを考えると全部を放りあげて浮かれることはできない。それでも少しでも私が嬉しく思っていることを彼に伝えたくてスカートというスタイルを選んだのだ。おそらく志生の実家に行った時以来だと思う。


「思っていたより長くなりそうなんだ。」

「名古屋?」

「うん。」

「そっか・・・。」

私が大事な返事をする前にそんな話が出たので、なんだか肩すかしにあった気持ちになってしまった。いや、よかったのかな。少し酔わなければ言えないかもしれない。

「・・一緒に来ないか。」

「は?」

「萌さえよかったら・・・一緒に暮らさないか。」

「!!!」

一瞬志生が何を言っているのかわからなくなって、マンガにあるように飲み物を吹き出してしまうところだった。

「すぐじゃなくてもいい。考えてくれないか。」

「一緒に暮らす?」

「・・少しこの土地から離れるのもいいんじゃないか。」

「・・・・。」

青天の霹靂(へきれき)とはこういうことなのだろうか、とぼんやり思う、それくらい私は面喰っていた。一緒に暮らすどころか、今住んでるところを離れることなど全く考えたことがなかった。多分私の顔にその気持ちが書いてあったのだろう、志生は気遣うように

「本当に良かったら、なんだ。無理強いする気はないよ。ただ、今日萌がいい返事をしてくれるってメールくれたから、つい言っちゃったんだ。気にしなくていい。」

と言った。それを聞いてるうちに冷静になり、ふと気づくともう私の答えは決まっていた。

・・・・・“これ以上志生と離れていたくない”


「あの・・、すぐ職場を辞めるのは大変だと思うの。」

「うん、だから気にしなくて・・」

「でも、すぐ婦長に相談して早急に退職願出すようにする。」

「・・え?」

「退職願、出すわ。」

「本当?」

「うん。」

「・・・本当に?」

「うん・・・、志生。」

そこで私はちゃんと志生の方へ顔を向けた。まだ驚きを隠せない彼の顔を見る。

「あの、これからの、あの、人生を、私と、あの・・・よろしくお願いします。」

しどろもどろに言う私に志生はもっとびっくりした顔をしたけれど、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「こちらこそ。」

そう言うとグラスに残っていたビールを一気に飲み干した。はあーっ、とため息をつき、

「これでまた人生の大きな壁を乗り越えた。」

と安堵の横顔を見せた。

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